会田小学校跡地

旧会田中学校の校舎を見学した後、道路の西側を見ると校庭のような広場が見えた。
少し坂を上って近づくと、避難場所の表示が立てられている。

「避難場所 旧会田小学校」とある。「旧」の文字は後で貼り付けたものだ。
そうか、ここは小学校の跡地だったのか。

会田小学校について確認したら、2013年3月に閉校となったそうだ。
四賀村では、4村合併以前の旧村での小学校(錦部小・中川小・会田小・五常小)を維持してきた。2005年に四賀村は松本市に編入され、各小学校は松本市立小学校となったが、児童数の減少などから統合することになった。
会田小学校の校地から500mほど南に校舎を新築し、2013年4月に松本市立四賀小学校として開校したとのことである。

当初は、会田小学校跡地に新校舎を建設して2011年に開校する予定だったのだが、小学校敷地の周辺で遺跡が発見され、発掘調査を行ない保存することになったので、学校の場所を変更したそうだ。
この遺跡は殿村遺跡と呼ばれているが、後ほど説明する。

まずは小学校の校舎について確認しよう。
校舎はすっかり解体されてしまったので、航空写真で確認する。

2011年に撮影されたものなので、撮影時点ではもう会田中学校は移転しており、敷地にゲートボール場が建てられている。小学校は閉校の1年半前だ。

校庭の西側にあるのが体育館だろう、その西には本校舎があった。本校舎の北にも一棟の校舎があり、こちらの方が古そうだ。ネット上の写真を見ると、北側の校舎は木造校舎だったようだ。その北側にプールがあった。

跡地は現在松本市が管理している。
私が立っているのが校庭だったところ、その奥に校舎があった。北校舎は正面の石垣の上にあったようだ。

建物はすっかりなくなっていたが、石碑などはいくつか残されている。
穴が開いている石柱があったが何だろう、校旗掲揚塔か何かの跡かな。

小学校におなじみの、二宮金次郎像。

児童会の歌の碑は新しい。
裏を確認したら、2000年の10月に建てられたものだが、建てたのは1943(昭和18)年度の卒業生だった。1937年(昭和12)に会田尋常小学校に入学した方たちが古希(70歳)の記念に建てたそうだ。

木に隠れてしまっているが、日時計があった。

校歌の碑と、「ヨクマナビ ヨクアソベ」という言葉を書いた碑。
校歌の碑は、1979年(昭和54)に建てられたもの。
「ヨクマナビ ヨクアソベ」の方は、1994年(平成6)に建てられたものだが、建てたのが1934(昭和9)年度の卒業生なので、当時使用した尋常小学修身書から引用したらしい。

石垣の上段にも上ってみればよかったが、夕方だったので見ないで済ませてしまった。
最近の航空写真を見ても、ゲートボール場の西側には何も残っていないようだ。

単に小学校が移転しただけなら校歌の碑などは移築するのだろうが、4校統合で誕生した学校だから旧校歌の石碑などは移転するわけにもいかずそのままになっているのだろう。

さて、次は殿村遺跡についてだ。
この看板は少し離れた位置に立っている殿村遺跡の説明板だ。上の航空写真内の星印の位置に立てられている。
ここは以前は会田中学校の校庭だったのだが、2009年から2010年にかけて発掘調査が行なわれ、室町時代の造成跡が見つかった。高さ1.2m,長さ30mの石積み、柱や塀、炉の跡などがあり、周辺からは皿や甕などの土器や、高級な青磁碗など茶道具も見つかった。

中世にこの地域を治めていた武士・会田氏の居館がこのあたりにあったということは江戸時代から言い伝えられていて、地図の緑線で囲んだ範囲がそうではないかと推定されている。

地図のオレンジ色で囲んだ範囲は、殿村遺跡の推定範囲だ。
殿村遺跡はその後、2017年までに第9次まで発掘調査が実施された。2013年と2016年には旧会田小学校の敷地の一部も発掘された。
発掘の結果、遺跡の石垣などは15世紀半ばから後半にかけて築造されたものらしい。構造から見ると、武士の館というよりも寺院など宗教施設の遺跡の可能性が高いという。

現在発掘は一区切りついているようだが、もしかしたら今後旧小学校や旧中学校の敷地が再び発掘される日が来るのだろうか? そうしたら旧会田中学校の校舎も博物館のような遺跡関連施設として復活…するかなあ?

【参考】
「殿村遺跡とその時代Ⅶ 平成28年度発掘調査報告会の記録」(松本市教育委員会/2018)
「松本市文化財調査報告 No.239 殿村遺跡・虚空蔵山城跡」(松本市教育委員会/2020)