横浜市震災記念館

「震災!!! いかに健忘症の日本人殊に關東の人達でも、その恐ろしさ惨しさを忘れはしなからう、當時の惨事逸話を語り合ふには餘りに悲惨であつて到底座興にはならぬ話である。」

この文章は、1928年に出版された「横浜の史蹟と名勝 (横浜叢書 ; 第1編)」からの引用である。
昔、横浜市震災記念館という施設があった。私はつい先日その存在を知ったのだが、もう30年以上前に解体されていたのだった。

同書に建物の写真が載っていたので転載する。

関東大震災の発生は1923年(大正12)9月1日。
横浜市は東京よりも震源に近く、市内に埋め立て地が多かった事もあり大きな被害を受けた。
横浜市の住家全壊数では約1万6000棟と、東京の数字(1万2000棟)より多かったのだ。
死者・行方不明者数は、神奈川県内で32,838人、当時の横浜市で26,623人を数えた。

「地震や洪水は避ける事ができないが、普段の心がけや訓練によって被害を小さくする事はできる、人々がそれを忘れないように」という思いで、横浜市は震災記念館を建設した。

ところで実は、最初の写真の建物は「3代目」の記念館だというのだ。

地震の発生した9月のうちから、横浜市教育課は記念館の計画を考え始めた。
当時北仲通にあった横浜小学校運動場の一隅にバラック2棟(157坪)を建て、1924年9月1日に開館した。これが初代記念館である。

けれど、この土地が生糸検査所の用地として買収されてしまった。記念館は移転を余儀なくされ、花咲町の瓦斯局跡に216坪のバラックを建て、1925年2月20日に移転開館した。(2代目)

ところが再び移転せざるを得なくなる。今度はその土地に本町小学校が移転することになったのだ。1927年5月26日、記念館を閉鎖し、しばらくは運動場の倉庫に資料を保管していたそうだ。

ただ、新館の建築がそれ以前から計画されており、1924年の市議会で記念館の予算が計上され、1925年に図書館の別館として建てられる事が決まっていた。1926年に野毛山公園前に建設が始まっている。これが3代目の記念館である。
1928年8月1日に開館式を挙行した記念館は、鉄筋コンクリート造2階建て、送延坪数466坪の建物であった。翌年までに平屋の別館(37坪)も建てられ、天皇も来館したという。

展示は次のような内容だった。
(1) 郷土資料の部
 ペリー来航の頃からの横浜の歴史。
(2) 震災の部(被害)
 大正12年震災でどのような被害を受けたか。ジオラマや、実際の被災物や写真の展示。大きなものでは寺の鐘や鉄道のレールなども展示していたようだ。
(3) 震災の部(救護)
 救護活動の様子、赤十字、青年団、軍隊の活動や外国からの支援。住民の生活について。
(4) 地震参考部
 地震に対する知識の啓蒙。
(5) 復興の部
 横浜市がどのように復興してきたか、模型などで展示。

1932年時点の資料によると、入館料は大人5銭、子供2銭とある。

その後、金属類回収令(1941年公布)により、1942年に金属品を供出することになり一時休館した。「愛市心を高め、文化の向上に役立てる」ということで同年8月に横浜市民博物館に改組して再開館した。
函館市中央図書館デジタル資料館のサイトに「市民博物館全景(昭和17年9月1日開館)」という絵葉書が掲載されているのだが、すでにこの時から建物はツタに覆われていたようだ。
博物館として再開館したものの、空襲の激化のため1944年に休止することになった。翌年には空襲で焼け出された市議会がここに移転し、博物館は自然消滅してしまった。

戦後は建物を横浜市立大学経済研究所、野毛山動物園事務所、横浜市史編纂室が使用し、1964年から結婚式場「老松会館」となった。結婚式場時代も建物はツタに覆われていたようだ。1991年まで使われた後、結婚式場は移転、建物は1994年頃解体された。

最後に、過去に撮影した航空写真に姿が残っていたので掲載する。

屋根に並んでいるのは何だろう?1949年の航空写真でも見られるので、後付けではなさそうだ。明かり取りの天窓だろうか。

【参考】
「関東大震災写真帖」(日本連合通信社編/日本連合通信社出版部/1923)
「横浜の史蹟と名勝 (横浜叢書 ; 第1編)」(横浜郷土史研究会/1928)
「博物館研究」第4巻第10号(日本博物館協会/1931)
「全国博物館案内」(日本博物館教会編/刀江書院/1932)
「残照:神奈川の近代建築」(朝日新聞横浜支局編/有隣堂/1982)
震災記念館」「市民博物館全景」函館市中央図書館デジタル資料館掲載