旧陸軍伊那飛行場
3月初旬、長野県伊那市を訪れた。旧陸軍伊那飛行場の遺構があるというのでそれを見に来たのだ。
残っているのは、コンクリートの遺構だ。
何本も鉄筋が突き出ているが、何かの基礎のように見える。
長さは30mくらいだろうか。道路に沿ってコンクリートの構造物が残っている。
等間隔に補強の支えのようなものがある。
少し離れて見るとこんな様子。道路は下っているのだが、構造物はほぼ水平に造られている。
このコンクリート構造物の前には、伊那市教育委員会が設置した説明板「旧陸軍伊那飛行場について」が立てられていた。
説明板の内容に、他の書籍にある情報も加えて以下に書く。
1943年、軍はここの畑や林を接収し4月から沢を埋め立てる工事を開始した。伊那飛行場の建設工事だ。作業は株木組が担当し、軍の建設部隊である中部百部隊も建設作業に当たった。11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出されて住民も作業に加わった。翌年には、旧制伊那中学校や上伊那農学校、旧制松本高校や長野師範学校の学生の勤労動員も行われた。
飛行場は面積150ヘクタールで、長さ1300m、幅80mの滑走路が造られた。
1944年に熊谷陸軍飛行学校の「伊那分教所」が開設され、少年航空兵や見習士官が3カ月の訓練を受けて戦地に配備された。
4回生まで送りだした後、1945年2月からは戦闘機を作る工場となったそうだ。
これは説明板の地図の一部を拡大したものだが、このコンクリート遺構は第2格納庫の土台だったらしい。戦中は木造の格納庫が3棟建てられていたという。
1945年、終戦直後に部隊自身の手で飛行機や兵器は焼却され、兵員も去って建物は部隊本部の一棟と格納庫一棟の残骸だけとなった。
同年の9月、政府は農林省の外局として開拓局を開設し、開拓事業を推進した。
飛行場跡の開拓は、長野県農業会が主体となり、実際の作業は地元で結成された開拓組合が行なった。1946年から本格的な作業が始まり、1949年には土地の払い下げを受けることができた。(多くは旧地主に売り戻されたそうだ。)
水が乏しい地域だったので当初は開拓は困難で、1951年の灌漑工事(三峰川総合開発事業に含まれていた)により用水問題を解決できたという。
三峰川総合開発については、過去の記事に概要図を掲載している→「春近発電所見学会」(2022.11.21)
最後は地図と航空写真で旧伊那飛行場の位置を確認しておこう。
戦後撮影された航空写真(1947年8月撮影)があるが、右側に白く写っているのが飛行場の敷地だ。
縮尺を合わせて現代の地図を掲載する。
矢印部分が、格納庫の土台が残っている場所だ。
最後に、位置が分かるよう広い範囲の地図を載せておこう。赤い枠で囲んだ部分が上の地図の範囲である。
今回は遺構の部分だけを見て終わってしまったが、またいつか飛行場だった範囲を自転車で回ってみようかと思っている。
【参考】
「旧陸軍伊那飛行場について」(現地の解説板/伊那市教育委員会設置)
「上伊那開拓十年史」(上伊那郡開拓十年史編集委員会編/上伊那開拓十周年記念事業実行委員会/1957)
「伊那市史 現代編」(伊那市史刊行会/1982)
「図説・上伊那の歴史下」(池上正直ほか著/郷土出版社/1987)
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