旧上田街学校(1)

2021-03-20

2018年にブログで「旧中込学校見学記」を書いた時に、〝資料館で見つけた「上田街学校」が気になる〟と書いておいてそのままだったのだが、その後いろいろ調べたのでまとめとして。

上田商工会議所前の歩道に、このような案内板が立てられている。
1878年(明治11)、ここに上田街学校の校舎が建設された。

案内板の内容を書き写す。

上田最初の学校建築
 上田街学校
明治11年(1878)ここに町民の学校として上田の明治文化を象徴する洋風建築3階建の上田街学校が建設され、天皇の宿泊所にも利用されました。その後上田尋常小学校分教場になり、同31年(1898)焼失、校長久米由太郎はその責を負って自殺し、その子・久米正雄はこの事件を「父の死」として大正4年(1815)に発表しています。

上田街学校の設立

1872年(明治5)に学制が発布され、1873年(明治6)に上田街学校が開校した。当初は学区内の本陽寺を仮校舎としていた。上田には藩校の伝統を受けつぐ松平学校があり、これは旧藩子弟のみ受け入れる学校であった。それに対し、上田街学校は平民の子弟のための教育の場として設立された。

1877年頃には仮校舎では不便なことが多いということで校舎新築の話題が出るようになった。

明治天皇巡幸

1878年(明治11)に明治天皇が北陸東海を巡幸することが決まっており、上田町が宿泊地となる予定だった。ところが上田には宿泊地となる適当な建物がない。そこでこの際だから小学校を新築して、そこを行在所に当てようという議論が起こり、場所を上田城旧大手門に決めて設計をし建設を進めた。工事起工後3ヶ月で3階建・望楼付きの校舎を完成させたという。

上田町から長野県令宛に〝すでに校舎の建築を始めている。必ず間に合わせるから校舎を行在所に〟と請願書を出しているのだが、その日付は明治11年6月29日である。県からは〝当局への申請はした。しかし、本当に大丈夫なのだろうな〟と確認がされている。7月26日には〝既に八九分の成功であり、今月中には必ず落成する〟と届けが出された。(もちろん書面はこんな文ではない。いい加減な意訳だ。)

明治天皇巡幸の一行は9月7日に上田に宿泊した。画像は「北陸東海御巡幸明細記」(栗田東平 編・慶雲堂・明治11年)のものだが、実際の人数は荷物運搬人や警備の警官も含めて2000人以上だった。

校舎の三階には地域の古書画・古器物などを陳列し、盆栽などを飾った。四階の望楼には四方一望の地図を作成して備え付けた。玉座は二階の西北室が使われたとのこと。

次の画像は、上田商工会議所前にある石碑。表面には「明治天皇行在所跡 元帥公爵山縣有朋」とあるが、この碑が建てられたのはだいぶ後の1920年(大正9)のことである。

裏面にはこうあった。

明治十一年夏秋之間 皇上巡幸北陸東海両道親察民情九月七日駐輦於上田町會上田街学校竣新營之功乃以充行在所焉町民遭此千古未曾有之盛事懽抃不已爾後毎歳以是日擧記念式大正五年十月上田町別築小學校舎以舊校舎為町役場至八年五月為市役所今茲市民相謀欲建碑以表行在所遺跡請文于余余喜市民仰感聖恩之深也敢録其梗槩云
 大正九年五月二十七日
 長野縣知事正四位勲二等赤星典大撰並書

上田街学校の変遷

行在所として使われた後、同年11月に開校式が行なわれた。
明治10年の統計になるが、上田街学校は学級数が12、教員数が13,生徒数は359名だったという(男子226名、女子133名)。明治14年の生徒数は男子196名、女子150名の計346名となっている。

その後、法令の変化などにより学校の名称や編成が変わっていく。

1886年(明治19)4月、松平学校に上田街・常入・常磐城・進新の4校を併合して上田学校と称することになる。上田街学校は上田分教場となった。

1888年(明治21)、高等小学校が郡内一校という制度になり、小県郡立高等小学校が新築された。高等科生徒はそちらに移ったため、尋常科生徒のみとなる。

1889年(明治22)に上田尋常小学校と改称し、本校(旧松平学校)には男生徒を、上田分教場(旧上田街学校)には女生徒を受け入れるという形になる。

1895年(明治28)、高等小学校の郡内一校制度が廃止となり、再び高等科を併置する。校名は上田尋常高等小学校となった。旧上田街学校校舎について言えば、「上田尋常高等小学校 上田分教場女子部」ということになる。
この年、久米由太郎(くめ・よしたろう)が上田尋常高等小学校長となった。

(つづく)

【参考】
「上田市史 下」(藤澤直枝著、上田市編集、1940年)
「上田市誌 近現代編(8) 学校教育の歩み」(上田市誌編さん委員会編、上田市・上田市誌刊行会発行、2003年)

歴史・資料

Posted by Sakyo K.