旧上田街学校(2)~久米由太郎のこと

1898年(明治31)3月27日夜、上田尋常高等小学校上田分教場女子部の校舎が焼失した。

当時の信濃毎日新聞(3月29日)にはこのような記事が掲載された。
「一昨夜の午後10時50分上田女学校より出火し壱棟全焼に帰せり。同夜は幸に風無く静穏なりしを以て体操室新築教室棟は勿論、他に延焼せず翌午前1時30分全く鎮火せしとのこと。…」

「…町長馬場氏は、同夜鎮火すると同時に直に緊急町会を開き種々協議を開き善後策を講じ(中略)一時体操室及び町会議場を教室に充用しなお常磐城学校の一部を借りうけ教授に差支え無からしめ、器具新調費その他修繕費等1500円を臨時支出することになりし(後略)」

焼失した建物は、1878年に上田街学校として建てられ、明治天皇巡幸の際に行在所となった建物だ。これが焼失したということで大きな騒ぎとなり、天皇皇后の御真影が焼けたという噂も加わって、一部の者が激高して校長宅に暴れ込むということがあった。1940年刊行の上田市史には「校長住宅に某日未明、爆物を投ずる者あるに至れり」と書かれている。

こうした状況の中、久米は責任を痛感して3月30日に自決してしまった。

久米由太郎は1853年(嘉永6)、武蔵国で旗本の息子に生まれた。
東京師範学校を卒業し、1874年(明治7)福島県の三等訓導に任ぜられ赴任した。その後、長野県師範学校長の能勢栄(のせ・さかえ)に招かれて長野県に。北安曇郡池田小学校校長、小県中学校教諭、上水内郡小学督業(監督と指導に当たる)を経て、再び上田にやってくる(小県中学校は上田にあった)。
1894年(明治27)に郡立小県高等小学訓導兼校長となり、1895年(明治28)に上田尋常高等学校校長となっている。

久米は、1897年には上田町の学務委員として町長宛に英語科や裁縫専修科設置の建議書を提出している。英語については高等科2年生以上に学ばせるという案で、英語科も裁縫専修科も同年中に長野県から認可された。
小学校中退者を夜間教えるという「上田補修義校案」を発表したこともある。

また「家庭への希望」と題した手紙を各家庭に送り、考えを述べている。
「一、学校はただ読み書きそろばんを教えるばかりの所にはこれなく、成長したる後よく一人前の人となりてその身を修めその家をも治め得らるる下地をこしらえる所と御承知下され度候」を始め、「毎日の復習」「家事の手伝い」など25項目について記している。最後の一文は、「一、御ついでの時又は何かの御ひまには折々学校へ御出下され御子様方のけいこの有様御覧下され度候」であった。

御真影焼失?

一部に、久米が自決したのは御真影を焼いてしまったからだ、という説がある。
何しろ久米由太郎の息子、久米正雄(1891-1952)が小説「父の死」[初出1916年(大正3)]の中で御真影について書いているのだから、そういう話になってしまうのも分かる。
以後はそれが事実のように、戦前は「美談」として、戦後は「戦前の暗い影」として一部で扱われてきた。

しかし、当時の新聞記事に御真影の話は出ておらず、火災後に開かれた上田町議会の議事録にも出てこない。また、「当時、御真影は本校にあったのだから、分教場であったこの学校にはなかったはず」という地域の古老の証言もあった。(「上田の昔を語る」1953年発行)
正雄自身は火災の時は満6歳であった。父から理由を話されるはずもなく、周囲のうわさ話を元に後に小説にしたと思われる。
現在は、御真影焼失については否定的な見解が多いようだ。
(上記は、「『御真影』に殉じた教師たち」岩本努著 を参考にした)
2003年の「上田市誌」でも「御真影が焼けたという噂も加わって」と記載しているので、否定的な立場なのであろう。

御真影の噂は、火事の5年前の1893年(明治26)3月に上田尋常小学校が天皇の御真影を拝戴していた(「上田市史」より)ことから出ていると思われる。(翌年の1月には皇后の御真影拝戴。)

御真影について国立国会図書館デジタルコレクションで官報を検索すると、1888年から「御真影拝戴」という記載が現れる。

検索に出てくるのは1892年までで、この後は掲載しなくなったのかもしれない。なので1893年の上田の御真影拝戴については官報では確認できなかった。

そこで1892年(明治25)の12月の画像を掲載するが、拝戴式は必ず行なっていたようだ。行列に学校職員や村長、生徒と父兄が加わったり、各家庭で国旗を掲揚したりする場合もあった。

(他の例 カタカナをひらがなに、旧字体を新字体に置き換え句読点を補った。)

・和歌山県有田軍有川高等小学校へ天皇皇后両陛下の御真影下賜に附き、去る16日該学校長教員生徒一同所轄郡役所へ出頭、郡長より御真影を拝受し郡長郡吏警官奉送、沿道の尋常小学校には職員生徒路傍に奉迎着校の上拝戴式を挙行せり。此日村内毎戸国旗を掲げ祝意を表せり。(官報2800号 明治25年10月26日)

・愛知県愛知郡愛知川尋常高等小学校へ天皇皇后両陛下の御真影を下賜りたるに依り、愛知川村長及同学校長は本月3日県庁に県庁に出頭して之を拝受し、途中奉迎の同学校職員生徒村会議員学務委員等前後を護衛して着校し、天長節拝賀式と共に御真影拝受式を挙行せり。(官報2810号 明治25年11月8日)

・千葉県尋常師範学校及び尋常中学校に於いては今回皇后陛下の御真影を下賜せられたるに附き、一昨一日両校共学校長以下職員及び生徒一同同県庁に出頭し、学校長御真影を拝受し生徒は玄関前に置いて奉迎し職員生徒一同守護して学校に至り拝戴式を行えり。(官報2831号 明治25年12月3日)

官報では明治26年の上田尋常小学校の事例は確認できなかったが、拝戴式は行なわれたであろうし、町民の記憶に残るイベントをしたのではないか。その記憶から「御真影も燃えちゃったんじゃないか」という噂になったのではないかと想像する。

ところがまた分からなくなる。
息子の久米正雄は1923年(大正12)に「不肖の子」を出版した。その中に地元の人から聞いた話として、父の死は校内の職員同士の対立(地元の教員と外部から来た久米と)が原因ではないか、御真影の話は口実に使われた、ということを書いている。これもどこまで事実なのか確認できないが、久米正雄自身は「父の死は、御真影焼失が一番の原因ではない」と感じたことで少しほっとしたように思える。

しかしこれでは、御真影焼失の噂が自然発生なのか意図的なものなのかも分からなくなってしまった。あれこれ考えても解決しないだろうから、御真影の話はこれで切り上げる。

上田市史(誌)

戦前の1940年に発行された「上田市史」では、人物誌のページに久米由太郎も掲載されている。16行の記述で、内容は校舎火災後に自刃したこと、「自ら責任を負い、此擧に出でし其高潔なる精神は、深く世人に感激を与たり」と、いかにも戦前らしい評価をしている。

2003年の「上田市誌 人物編」では、英語教育や補修義校の提案、保護者への手紙など、上田の教育界で果たした功績を評価している。最後のしめくくりは次の文だった。
「残念ながら由太郎は、上田の教育界の先達として活躍中に、惜しまれながらこの世を去りました。惜しみても余りある教育者の他界でした。」

終わりに

最後は地図を。上田商工会議所の前には上田城下町復元図が立てられている。数年前に立てられたもののようだ。

地図内の「現在地」とある隣に上田商工会議所の建物が赤く塗られている。1878年から1898年まで、ここに(名称は変わったが)上田街学校の校舎は存在した。

火災翌年の1899年(明治32)、上田尋常高等小学校は解散し、男女両校に分かれて独立校となる。同年4月から、上田町立男子尋常高等小学校、上田町立女子尋常高等小学校としてスタートした。

【参考】
「上田市史 下」(藤澤直枝著、上田市編集、1940年)
「上田市誌 近現代編 学校教育のあゆみ」(上田市誌編さん委員会編、上田市・上田市誌刊行会発行、2003年)
「上田市誌 人物編 明日をひらいた上田の人々」(同上)
「『御真影』に殉じた教師たち」(岩本努 著、1989年、大月書店)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

9 + seven =