桃介橋
桃介橋はJR南木曽駅の少し北側にある、木曽川を渡る橋だ。
写真は右岸(西側)から撮影した。
桃介橋は1994年に近代化遺産「読書発電所施設」の一部として国の重要文化財に指定された。
桃介橋は、大同電力により1922(大正11)年頃に架設された吊り橋である。読書発電所の建設資材を三留野駅(現在の南木曽駅)からトロッコ軌道で運ぶために架けられた。つまりは工事用の吊り橋である。
橋を架けるなら川幅の狭いところに架けるのが効率的なのに、わざわざ広いところに架けた理由は、定説はないらしい。
〝見栄えのためにわざわざ長くした〟などという説もあったが、それには賛成できない。私は「最狭地点だと駅からの高低差があることと、そこの土地を取得できなかったため」が理由だという説に納得した。
1922年、福沢桃介は木曽川の右岸に工事の来訪者の宿泊所を兼ねた別荘を建設した(現在の福沢桃介記念館)。三留野駅から桃介橋を渡ったトロッコはその別荘の前を通り、インクラインで断崖を登って建設現場に至るというものだったそうだ。
では実際に橋を渡ってみよう。私は右岸(橋の西側)から渡り始める。
橋の長さは247mで、3基の主塔がある。目の前に西側の主塔が立っている。
橋の有効幅員は2.7m。木製のトラスで補強している(木製補剛トラス)。
これは2番目(中央)の主塔。
橋の中央に少しだけ色の濃い2本の線が見えるが、これは当時あったトロッコの軌道を表現しているものだという。
3番目の主塔。
主塔をくぐり抜けると、対岸に着いた。この橋の下には国道19号線が通っている。
ケーブルの固定位置。
東側からの眺め。
桃介橋は1950年(昭和25)に読書村に移管され、村道として日常の通行に使われてきた。西岸には中学校・高校があり、通学路としても重要な橋であった。
やがて下流に新しい橋が架けられたため、桃介橋の役割は失われていく。
そして洪水の被害や老朽化により床板が落ち始め、1978年(昭和53)に通行止めとなってしまった。
その後、1988年に「ふるさとづくり特別対策事業」として周辺整備を含め橋の復元修理が計画された。1991年(平成3)に「近代化遺産」となる方向で橋の復元が決まり、実際の復元工事は1992年11月から93年9月に行われた。
復元の方針
(1) 主塔コンクリートは構造上の補強対策は行なわず、通行制限を設けて対応する。ただし表面の劣化については対策をする。
(2) ケーブルは全面更新する。金具などは使えるものは再利用する。
(3) 木部は、全面的に更新する。形態は当時の姿をそのまま残す。
工事が完成し、1993年10月17日に渡り初めとなった。
さて、再び橋を渡る。
この橋は中央の主塔部分で川原に下りることができる。
ここが下り口。
階段を下り、川原から主塔を見上げる。
写真の左側は川原、右側は河川公園となっている。
川原を歩いて下から撮影。
歩き回っていろんな角度から見る。
橋は渡るのも楽しいけど、見上げるのが楽しい。
この後は再び階段を上り、西岸まで歩いて見学を終えた。
橋を渡り終えた後、山の歴史館と福沢桃介記念館を見学しに行った。
山の歴史館の横には、桃介橋の部材の一部を保管してあった。
ところでこの部材は文化財の指定に含まれているんだろうか。
前回の記事で引用した、読書発電所に設置されている説明板には次のように書かれている。
「桃介橋(発電所建設資材運搬用木製吊橋 247m、平成4〜5年度に復元修理、附・古材一式)南木曽町所有」
しかし、文化庁の「国指定文化財等データベース」を見ると桃介橋の附指定は何もないのだ。
古材のほんの一部分を保管してあるのに「古材一式」と書いてあるのにも違和感を感じる。
発電所の説明板が間違っているのだろうか。
あるいは、指定時は含まれていたけれどその後外されたということなのだろうか。
【参考】
「桃介橋保存工事」(橋場則彦・後藤和満/「橋梁」6月号掲載/1993)
「近代土木遺産と桃介橋」(馬場俊介/「橋梁」7月号掲載/1993)
「『桃介橋』の復元工事完了」(田口謙一/「産業考古学会報74号」掲載/1994)
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