沖縄測候所

那覇市にある陸上自衛隊那覇駐屯地の敷地前の道路沿いに「沖縄地方気象台跡」という説明板が立っている。地図の矢印のところだ。

説明板には1927(昭和2)年に建てられた気象台の跡だと書かれている。沖縄地方気象台とあるが、建物が建てられたときには沖縄測候所という名称だった。
なお実際の建物は説明板の位置ではなく自衛隊駐屯地の敷地内にあった。
今回はこの沖縄測候所について書こうと思う。

1)那覇の気象観測(明治・大正)

那覇の気象観測は、1890年(明治23)に那覇若狭町村字松尾山(現在の那覇市松山)に設置された那覇2等測候所に始まる。
1900年(明治33)に那覇1等測候所となり、毎日24回の定時観測を実施した。
測候所の費用は国費だったが、沖縄で府県制が施行された1909年からは県費で運営されるようになった。
1917年(大正6)に県立那覇測候所と改称された。
1924年(大正13)5月、県立那覇測候所が失火で焼失した。庁舎内にあった測器、気象原簿なども全てが焼失した。
測候所の一帯は学校や裁判所、知事公舎などがあったが、幸い周囲の被害は出さずに済んだそうだ。

2)沖縄測候所の新築

火災後、新庁舎が建設されるまでは県会議事堂の一角にある建物の屋上に櫓を仮設して6月から観測を再開した。
同時に新庁舎の建設が進められ、建設地は島尻郡小禄村(現那覇市)の高台とすることが決定された。

1927年(昭和2)4月、中央気象台付属沖縄測候所として新庁舎が竣工した。
建物の写真を掲載しよう。
これは「気象百年史 本編」(気象庁/1975)から引用したものだ。写真のキャプションには「昭和初期の沖縄測候所」とある。

同年に那覇測候所長に任命された山内所長が新築の状況を中央気象台に報告しているので、そこから一部を引用する。(出典:「琉球の気象史(2)」具志幸孝)

「(前略)…既成建築のものに付きて略述すれば、まず庁舎(約97坪)は鉄筋コンクリート平屋建てにして9室よりなり、南面は全部6尺の幅を有する熱帯地の建物に見る如きベランダを有し、中央玄関より入りて右側に応接室左側に観測室ありて、庁舎中央東西南北に内廊下を隔て、調査室、晴雨計室、時計室、器械並に実験室、図書室、庶務会計室及宿直室がそれぞれ適当に配置せられ、屋上の測風台は地上高さ約12米にあり。
 而して水利不便の地なれば屋上の雨水を集むる為、別に鉄筋コンクリートの水槽ありて、此れにより庁舎内必要な場所に給水自由に使用し得る様、設置せらる。庁舎に正面し左側には那覇市唯一の美観たる高さ300尺の大鉄塔500尺を隔てて南北に立ち、そのほとんど中央に無線発信室、事務室、宿直室、小使室、浴室等を有する建物(約57坪)あり、之に接続して別棟の前記動力室、(10坪)蓄電池室(14坪)等互いに渡廊下にて便利よく連絡せらる。…(後略)」

(上の写真の一部を拡大した)

1932年(昭和7)に中央気象台の機構が一部改正され、沖縄測候所は「中央気象台沖縄支台」と改称された。
1939年(昭和14)には全国の気象管署が国営となり、名称が「沖縄地方気象台」となった。

3)沖縄戦下の気象台

1941年(昭和16)、海軍省は軍事上特に重要な気象官署を指定した。南西諸島では、石垣島・那覇・沖大東島・南大東島・名瀬の5つが指定された。
太平洋戦争が始まった1941年12月、気象報道管制が実施され気象台は軍の統制下に入った。新聞やラジオからは天気予報が消えた。(特別な暴風雨警報は一部情報は報道される場合もあった。)
気象台職員は観測情報を軍に送ることが任務となった。

1944年10月10日、米軍が沖縄本島への空襲を行なった。那覇市をはじめ、小禄・嘉手納・読谷の各飛行場が爆撃を受けた。
気象台は幸い爆撃を受けずに無事だったが、気象台職員の多くが那覇市に居住していたので住宅は焼けた。気象台に集まった職員は小禄の防空壕の中に無線通信室を設けて気象観測仮施設とした。
1945年4月、米軍が上陸し地上戦に突入した。
5月の爆撃で小禄壕が崩壊し、機器は破壊され職員も負傷した。職員は南の方へ移動を始めた。
軍と共に移動をしていたが6月、部隊は切り込み作戦に行くが気象職員は軍人ではないので自由行動をとってもらいたいと言われ、職員は団体行動を解除した。
その後摩文仁方面へ避難していったが、多くが亡くなった。三十数名いた職員で生き残ったのは5名だけだったという。

4)琉風之碑の建立

終戦後の1946年、名瀬測候所長は沖縄の気象職員の消息を調査するために米軍の船に乗船して沖縄を訪問した。生き残りの職員に会い、気象台職員の最後の地、摩文仁村伊原(1946年当時は三和村、現材は糸満市)を訪れ慰霊碑の建立を決意する。
1951年、琉球気象台長は東京中央気象台を訪れ、沖縄戦の気象台職員の状況について報告会をし、慰霊碑建立についても要請をした。
1955年12月、日本全国の気象官署職員と琉球の気象職員の寄付によって碑は完成した。碑には70名の戦史者名が刻まれ、かつての沖縄地方気象台職員の共済会「琉風会」にちなみ、碑の名前を「琉風之碑」とした。

5)戦後の旧測候所

旧沖縄測候所の建物があった場所は、終戦後米軍が占領し、建物は修理されてアメリカ総領事館として使用された。現地の説明板には1945年に施設は全壊したと書かれているが、一部は残っていたのだ。
その建物の前でガーデンパーティーが催されている写真が、沖縄県公文書館に所蔵されている。

1972年に沖縄が日本復帰をし、米軍基地だった敷地は自衛隊駐屯地に移管した。
その後もしばらくは建物が残っていたが、どのように使われていたのかは調べられなかった。
1977年の空中写真に建物が写っている。

しかし、1987年に解体されてしまったのだ。

NHKアーカイブスに「那覇市 特攻支えた気象台跡」(2009年9月放送)という記録が残っている。その画像を見ると、解体跡地に「沖縄地方気象台跡」の碑が残っているようだ。
表面には「昭和2年4月5日竣工 昭和62年7月31日解体」と彫られているが、碑の角は欠け亀裂が入っている。高さが15cmくらいしかない碑なので、車両等でぶつけたり乗り上げたりしてしまったのではないか。放送当時は周囲にロープが張ってあったが、今はどうなっているのだろう。
もう誰も気にする者はいないのではないかと想像してしまう。
まあ一般市民は見学できないので、道路沿いの説明板を見るしかないのだけれど。

【参考】
「琉球の気象史(2)」(「測候時報」第40巻1号掲載/具志幸孝/1973)
「気象百年史 資料編」(気象庁/1975)
那覇市 特攻支えた気象台跡【戦跡を歩く】」(NHKアーカイブス/2009年9月2日放送)

歴史・資料

Posted by Sakyo K.