描かれた満州分村大日向(2)
写真は,1938(昭和13)年3月24日の官報に掲載されていた広告です。私は実物を見ていないので、広告から想像するだけですが,こういう雑誌が当時あったのですね。
国立国会図書館のデータを見ると,同じ年の六月号と七月号の広告も掲載されているのを見つけました。
さて、以下は前回のつづきです。
アサヒグラフの掲載の後,大日向村にやって来た作家がいました。農村を舞台とした作品を得意としている和田傳(わだ つとう)です。
和田は1938年の10月に来村し,資料収集などを行ないます。そうして小説「大日向村」を書き,1939年に朝日新聞社から出版されました。
しかしこれはあくまで小説であってノンフィクションではありません。それは著者自身が明言しています。
和田は小説内で「地主・中農・貧農などのあらゆる階層を二分した『画期的な分村』を、描きたい」と思っていたようです。女性の自殺など実際にはなかった事件も盛り込んで「母村再建のために分村を決意した村人」を描いたのです。
この小説をもとに、大日向村を演劇にして上演しようと考えたのが,「前進座」です。1939年の10月,大阪での秋季公演で上演されました。上演するまでに、前進座は関係省庁や関係者に連絡を取って意見を聞いたり,援助を頼んだりしています。その意見をもとに多少修正もした上で上演をしたようです。
その後,11月~12月には東京で公演が行なわれています。
その公演を見た東宝が,今度は映画化を提案します(製作は東京発声映画)。そうしたらまあ、関係各省庁・各団体から「全面的援助の意向」が寄せられるじゃありませんか。もう国策映画として製作するしかありません。
1939年には「映画法」が施行され,映画製作・配給の許可制や、脚本提出、完成フィルムの検閲などが定められていたのです。
撮影は1940年の二月から行われ,夏には満州でのロケも行ないました。そうして文部省推薦映画と認定されたのです。映画の封切りは10月30日でした。
(当日配布された資料)
しかしこの1940年という年は,現実の移民は人が集まらず思うように進まなくなった時期でした。
そのためか、また新たな宣伝がなされます。
1941年,日本教育紙芝居協会が紙芝居「大日向村」を製作しました。これも和田傳の小説を原作にしています。この紙芝居協会は,「教育現場での活用」を目的に,国策宣伝のための紙芝居を精力的に製作していきます。発行は日本教育画劇株式会社ですが,朝日新聞社が出資して設立した会社でした。新聞販売網を利用して紙芝居を地方の小学校,各種団体、町内会にまで売り込んだということらしいです。
こうやって次から次へメディアを替えては国策の宣伝していった当時のやり方を聞いて,現代にいる私はあきれてしまうんですが、国や政府は統制はしただろうけど、あれを作れこれを書けと具体的な指示まで出すわけでもないでしょう。小説も映画も演劇も,紙芝居も,やらされてる部分と,自発的に作っている部分とあるように思えます。やはり皆「空気を読んで」いたんでしょうか?
***
1945年,終戦。
大日向村で,戦後故郷に帰ってこられたのは大陸に渡った人数の半分に過ぎませんでした。1946年の秋になって,やっと母村にたどり着きます。しかしそこにも居場所はなく,結局国内で別の場所を見つけて入植することになります。
1947年4月,軽井沢に65戸165人が入植しました。
この開拓地に再びメディアの脚光が当たります。同年10月の昭和天皇巡幸の際、軽井沢の開拓地にも訪問したのです。現在の天皇皇后陛下も、皇太子夫妻時代から大日向開拓地を訪れ,交流をしてきたそうです。
「両陛下は皇太子夫妻時代から軽井沢町に滞在中に同地区(大日向開拓地)を訪れることが多く、引き揚げ者や家族らと交流を深めてきた。昨年も同地区で散策を楽しまれている。」(日本経済新聞2018年8月23日)という記事のように、現在も大日向開拓地はメディアに登場しているのです。
終わったんじゃなくて,今に繋がっているんだ…そんな大日向村の歴史を考えた一日でした。
上映会も終わって私は小海線で佐久平駅まで行くのですが,一番近い駅は海瀬駅。でもだいぶ時間に余裕があります。次の駅も近そうだから北側に1駅歩くことにしました。
ついたのは羽黒下駅。この駅が、戦前の開拓団が満州に向けて出発をした駅でした。
(以上の文章は講演の内容と「満州分村の神話 大日向村は,こう描かれた」(伊藤純郎 著)を参考に書いたものです。)
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