ユタ日報(3)~松本市
松本市中央図書館2階の展示ケースに、ユタ日報の資料が展示されている。
高森町歴史民俗資料館で展示されていた、ユタ日報最終号版組みもここに保管されている。
ケースは2つあり、もう一つのケースにはユタ日報の説明と寺澤家の写真、関連する新聞記事や書籍が展示されている。
ケース内の説明によると、寺澤國子は松本市名誉市民であり、國子の死後に遺族によってユタ日報全号と最終号の版組みが寄贈されたこと。そこに松本市ソルトレークシティ姉妹提携委員会が関わっていたことが記されていた。
(前の記事では、私は「ソルトレイクシティ」の表記をしているが、この記事では松本市の表記に合せて「ソルトレークシティ」と表記する。)
松本市がソルトレークシティと姉妹都市提携をしたのは1958年のことである。長野県内の市町村では初、日本全国では13番目という早い時期のものだったらしい。
始めは数名の訪問や、絵画作品の交換だったが、数年後に訪問団の交流が始まり、教員の派遣研修なども行われるようになった。
1977年には「松本市ソルトレークシティ姉妹提携委員会」が設立され、そこが中心となって現在も交流が続いている。
姉妹都市提携に尽力した人たちの中に寺澤國子もいた。ソルトレーク市長や関係者とともに1965年に推薦され松本名誉市民となった。
その後1968年には勲五等瑞宝章を受けている。
國子の業績が注目されたのは、1985年に上坂冬子の「おばあちゃんのユタ日報」(もとは信濃毎日新聞の連載「信州女のユタ日報」)が出版されたことが契機となっている。
また学術的研究としては、1980年代から日系新聞研究に取り組んだ田村紀雄・東元春夫の業績も大きい。
1983年に米国議会で「戦時下の強制収容が不当なものであった」という報告書が出され、アメリカでも日系人に関する議論が高まった時期であった。
1991年、國子が死去した。
ユタ日報は廃刊となったが、大切な資料を残そうという声はいくつか上がっていたようだ。
ロスアンゼルスの「ジャパニーズ・アメリカン・ミュージアム」から声が掛かったり、地元のソルトレークにに残すべきだという意見もあった。
松本市も保存を申し出て、遺族は迷った末に松本市に託すことを決めたそうだ。
1992年、國子の墓前で調印式が行なわれ、1917年~1990年までのユタ日報(11063部)と、最終号の版組などが市に寄贈された。
松本市中央図書館に展示されている活字。
資料の寄贈を受け、1993年9月に松本市では30数名の市民と研究者により「ユタ日報研究会」が発足した。
会の「目的と規約」の中には、
「ユタ日報松本研究会は、市民や研究者が参加し、その貴重な資料をもとに研究し学びあい、『20世紀の証言』を信州・松本から発信する会です」
と書かれている。
研究会は会誌「ユタ日報研究」をまとめており、2022年6月には第27号が出されている。
また松本市は、ユタ日報の復刻版(1941年~45年の分)も編集した。
研究会報と復刻版は、所蔵している県内のいくつかの図書館で読むことができる。
高森町の展示で並べられていた会報や書籍。
そして2020年、スタンフォード大学フーヴァー研究所ライブラリー&アーカイブと提携して、1914年から1947年までのユタ日報がデジタル公開された。
リンク「邦字新聞・デジタルコレクション」
これはOCRで文字認識をしているのだが、文字の確認ができていないのが多いので、ボランティアを募集している。(2022年12月現在)
私は登録して、わずかではあるが時々テキストを修正している。
ユタ日報は、2ヶ月ほど休刊したものの第二次大戦中に発行されていた。英語が不自由だった日系1世にとっては、日本語新聞が軒並み発行停止されたことは、非常に不安なことであった。そういう人たちを支えたことの意義は大きい。
その読者が高齢化し亡くなっていき、次第にユタ日報の役目は失われていくのだが、國子は最後まで支え続けたのだった。
【参考】
・「松本市・ソルトレークシティ姉妹都市35周年を迎えて~ユタ日報寺沢国子さんを偲んで」(本郷文男著/松本市ソルトレークシティ姉妹提携委員会発行/1993)
・「概説『ユタ日報』-その歴史と意義-」その1~その4(山田晴通/2010)
・松本市中央図書館展示物
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