ユタ日報(2)~寺澤國子
1939年、寺澤畊夫は58歳で亡くなり、妻の國子と二人の娘が残された。
画像は1939年5月5日のユタ日報で、一面には寄せられた弔電・弔辞が、三面には葬儀の様子が掲載されている。
國子は新聞社を廃業して日本に帰ろうと思っていたのだが、葬儀の参列者からユタ日報を続けて欲しいという声を聞き、社長となることを決心した。
3面には、葬儀でその決意を述べた國子の挨拶が掲載されている。
「寺澤の最後までの希望はユタ日報をたてて行く事でありました。わたしは譬えどれ程困難でも亡き夫の志を余所に見て帰国することはできません。
どこ迄も皆様御有志の方々や愛読者の方々におすがりしても出来得るならば社を立てて行きたいと思います。(中略)皆様が哀れと思し召して御救助いただけるならば亡き夫の意思をついで新聞と死を共にする覚悟をもっております。」
國子は車の運転を覚え、集金旅行に走り回り、経営の立て直しに奮闘をした。
また、英文欄を紙面に入れ、日本語の読み書きができない者が多い2世の購読者を増やしていった。(しかし日本語の活字しか持っていないため、英文は外注に出すことになり経費がかかった。)
1941年12月、日米開戦。
開戦後、西海岸の全ての日本語新聞は発行停止となった。12月11日にFBIがユタ日報を訪れ閉鎖を命じた。
2ヶ月ほどして、ユタ日報と他の2紙のみ、発行が許可されることになった。政府の指示命令を伝えるために、いくつかの日本語新聞は必要だと判断したようだ。
新聞の休業中、日系人にとって重大な事があった。ルーズベルトが、陸軍に軍事地域から日系人を立ち退かせる権限を与えたのだ。(大統領令9066号)
西海岸とアリゾナ州南部から全ての日系人が立ち退かされ、12万人が山間部の強制収容所に収容された。
収容所で情報を欲しがっていた人々は、ユタ日報の存在を知ると購読をする人がどんどん増えていった。開戦直後は2500部くらいだったものが、一時は10000部まで増加したという。
1945年8月15日の紙面。
1段目中ほどに「大戦終止す」の見出しがある。
「昨日。火曜日=日本同盟通信は連合側の降伏条件に従い平和条約署名を受諾する方針に決定した。と発表したが、未だ白亜館(ホワイトハウス)からは正式戦勝確認の発表はされていない。然し何れ二、三日中に決定公表さるる事と思う。」
戦争が終わり、多くの日系新聞が復刊・創刊され、また日本語新聞を必要としていた1世の人口が減少していくにつれ、ユタ日報の発行部数も減少していった。発行回数も週3回から2回、1回と減り、最後は月刊となった。
主筆として社を支えた最後の社員が1977年に亡くなってからは、國子と娘だけで発行を続けた。
発行部数は570部程になっていたが、それでも、「3年分の購読料を支払うので、ゼロになったら発送を止めてください。多分その頃には私もこの世にいないでしょう」と、前払いをする読者もいたそうだ。
「新聞を待っている人がいる限り、私の命がある限り発行していく」と言っていた國子は、1991年に亡くなった。それとともに、ユタ日報もその歴史を終えたのだった。
写真は、会場に展示してあった最後の組番。(松本市中央図書館所蔵)
1991年春に発行予定だったもの。第11,877号。活字に組まれたが印刷まではされなかったらしい。
(つづく)
【参考】
・特別展「寺澤畊夫とユタ日報」(高森町歴史民俗資料館/2022)
・「おばあちゃんのユタ日報」(上坂冬子/文芸春秋/1985)
・「ユタ日報のおばあちゃん 寺澤国子」(上坂冬子文・加古里子絵/瑞雲社/2004)
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