ユタ日報(1)~寺澤畊夫
記事にするのがずいぶん遅れてしまったが、今年の7月~8月に、高森町歴史民俗資料館(長野県下伊那郡高森町下市田)で「寺澤畊夫とユタ日報」という特別展が開催されていた。
ユタ日報は、1914年から1991年までユタ州ソルトレイクシティで発行されていた日本語新聞である。
以前他の資料を探す中でユタ日報の名前を目にしたことがあり、興味をもったので訪問した。
ここが高森町歴史民俗資料館。1980年に開館した資料館で、2000年に増築された。
玄関にあった案内表示。
寺澤畊夫は、1881年(明治14)に下伊那郡山吹村(現在の高森町)に生まれた。父は区長や村長を務めた村の重鎮で、畊夫も東京への遊学後、地元で青年会の会員となり活動をしていた。
しかし父が他人の保証人となって借金を背負い込み、畊夫が父に代わって資産を売却して負債を整理した(1904~05)。
畊夫は東京で働こうと考えたが就職口がなく、1905年(明治38)にアメリカに渡った。
数年間は職を転々としていたが、1909年にソルトレイクシティに移住し、農園の経営を始めた。最初は赤字だったがセロリの新品種の栽培で成功し、1912年にソルトレイクに野菜果物市場ができたときには、その重役の一人となるほどだった。
畊夫は農業の傍ら新世界新聞(サンフランシスコで発行されていた日系新聞)の特派員の仕事をやっていた。しかし日本人会について批判的な記事を書いたことで反発を受け、特派員を辞めることになった。
そこで密かに活字を日本に注文し、1914年11月3日にユタ日報第1号を発行した。(最初は週1回発行、その後週4回程度に増える。)
現存する最古のユタ日報。11月24日発行の第4号である。
なお寺澤の名前の表記だが、新聞の活字の都合で「寺澤畔夫」と表記するようになった。
さて、ユタ日報が創刊された時、実はソルトレイクシティには既に別の日系新聞が発行されていた。「絡機(ロッキー)時報」という新聞で、この時点で7年間発行(週2回発行)の実績があった。
当時ソルトレイクシティの日系人の人口は2000人ほど。ユタ日報は日刊を売りにしたが、販売部数は絡機時報に及ばず、また絡機時報も畊夫に対する批判記事を掲載し、経営は苦しかった。
畊夫はアイダホ州やカリフォルニア州への営業を行なって苦境を乗り越えたという。
ユタ日報の紙面構成は、時期によって異なるが概ね次のようなものだった。全4面構成で、
1面=社説・論説、文学(詩や俳句)、投書、広告(半分)。
2面=広告(ほとんどが広告で、時に記事が載る)
3面=日本人会のお知らせ欄、広告
4面=日本の新聞から転載した小説、広告
3面のお知らせ欄では、葬儀のお知らせや会葬のお礼、催し物、予防接種など、身近な情報が掲載された。コミュニティ紙としての役割が大きかったようだ。
1920年、ユタ州議会で排日土地法が上程された。
1914年にカリフォルニアで成立した「カリフォルニア州外国人土地法」は、市民権獲得資格のない外国人(主に日系人らアジア系移民)の土地所有や借地を禁じるものだった。法律の条文には日系人を特定する言葉はないが、日系人を閉め出す目的が明白だったため「排日土地法」とも呼ばれた。カリフォルニアではより厳しく制限をする修正法案が1920年に可決された。
畊夫はこの法案に反対だったが、日系人の中でも賛否が割れ、絡機時報は賛成の立場だった。畊夫は自分の新聞で法案阻止を訴え、議会や産業関係者への働きかけも行った。最終的に法案成立は阻止された。
排日土地法案が阻止された後の1921年、畊夫は日本に一時帰国し、父や弟と面会した。地元で講演会を行なったり、新聞に寄稿もしたという。そして15歳年下の村松國子と結婚をし、結婚後すぐに二人で渡米した。
1927年、畊夫はライバル関係にあった絡機時報を買収した。これでユタ日報がユタ州で唯一の日系新聞となったのだが、その後ユタ州の日本人数が減少し、部数減は避けられなかった。巨額の負債を抱えたため経営も苦しく、日刊で発行していたものを週3回に減らした。
1939年、寺澤畊夫は肺炎で亡くなった。ユタ日報を創刊して25年、58歳だった。4月に行われた葬儀で集った香典はすべて後の経営資金にまわされ、借金を帳消しにしてくれた債権者も多かったので、ユタ日報は存続することができた。
(つづく)
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