松本の擬洋風建築(3)

建築講座パネル展「松本のたてもの2021 ~街を彩った擬洋風建築~」の展示の中から、今はもう存在していない建物だけピックアップして書いている。
その第3話。

4)松本警察署

前回に続き,三代広重の錦絵を再び掲示した。前回「形は正確ではないが雰囲気は出ている」と描いたが,この警察署は実物をほとんど見ずに一般的な警察署のイメージだけで描いているように思う。

会場の写真だけでは分からなかったが、後で書籍で別角度の写真を見たら、この建物は左右対称ではなかったのだった。こんな形だった。

展示パネルによると,明治10年(1877)に建てられた木造二階建てで、設計・施工に立石清重が関わったと推定されているそうだ。(ただし別の本では竣工を明治11年としているものも見た。)
前回書いたように1888年(明治21)の大火で全焼してしまったので、10年くらいしかこの建物は存続しなかった。

5)長野県師範学校松本支校

同じく明治10年の建築。松本城の東側,現在の日本銀行松本支店の辺りにあったようだ。これも立石清重の設計らしい。立石がおそらく東京へ行って見たであろう東京裁判所(明治7年築)を参考にしてそれをアレンジしたのではないかと考えられている。正面に八角塔が立っているが建物の中心ではなく少しずれているところは開智学校と同じだ。

「松本中学校開校式繁栄之図」(3枚組,1885年・吉田守拙画)の右側にこの建物が描かれている。

東京裁判所の方は,「明治大正建築写真聚覧」の方に掲載されていた。1874年(明治7)の竣工とあるが、設計者名は書かれていなかった。この書籍の出版時(1936年)にはもう存在していなかったとのこと。

錦絵に,東京裁判所を描いたものを見つけた。「東京開化三十六景」(1874年・三代広重画)。
建物が実際にこういう色だったのかは分からないけれど。

6)長野県中学校松本支学校

現在の松本深志高校の前身。明治18年(1885)に松本城二の丸に建てられた。これも立石清重が手がけた校舎だという。校舎は増改築され,1935年に移転するまで二の丸が校地だった。
絵は上と同じく「松本中学校開校式繁栄之図」より。(3枚組の中央)

7)松本郵便電信局

松本郵便局は,1888年(明治21)の火災の翌年,電信局のあったところに移転して松本郵便電信局となった。1889年竣工のこの建物は、これも立石清重の設計だが、この時期になると、それまでの「擬洋風」というスタイルからは離れたようだ。
こんな感じの建物だったが,色は私が想像で決めたもの。

次の写真は「松本案内:附・日本アルプスと松本平」(1921)のもので、上の絵と比べると建物が大きくなっている。時期ははっきり分からないが、大幅に増改築を受けたのだという。

松本郵便局電信局は1903年に再び松本郵便局となり,1961年までこの地で営業を続けた。(その後移転。)

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それにしても今回挙げた7つのうち5つまでが、立石清重が関わっている建物であった。大活躍である。

立石は1826年(文政9)に大工の棟梁の次男として松本で生まれ、父の後を継いで江戸時代には松本藩の御用を務めていた。明治に入ると筑摩県の仕事を多く受けている。上に書いた建物以外にも、東筑摩郡高等小学校や筑摩縣師範学校、松本裁判所や大町区裁判所、長野県議会議事堂など、多くの建築を請け負った。(松本裁判所は、今保存されている建物ではなく、その前にあった初代の裁判所を建てた。擬洋風ではなく和風建築だった。)

立石が明治維新を迎えたのは39歳のときである。彼は東京へ洋風建築の見学に出かけた際にはカメラや牛肉など西洋文化を楽しんだという。また、西洋新聞の広告絵をスクラップしていたということで、西洋文化への関心が高かった。
江戸時代から身に付けてきた大工の技能に西洋への関心が加わって、独創的な松本の擬洋風建築が生まれたといえる。

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今回の展示には、私が書いたものの他に現存している建築のパネルも展示されている。
11月6日には,松本市中心部で建築士の方が建物の見学会を開催するそうだ(15名限定・要申込)。申込方法は,松本市歴史の里のサイトをご覧下さい。

【参考】
・パネル展「松本のたてもの2021 ~街を彩った擬洋風建築~」2021年9月~松本市歴史の里開催
・松本市立博物館ニュース「あなたと博物館」N0.206, 2016.9.1発行

歴史・資料

Posted by Sakyo K.