「文化のみち」を歩く(1)

2023-04-27

名古屋城から東に2キロ半ほど進むと徳川園・徳川美術館があります。名古屋城と徳川園の間の地域は「文化のみち」と名付けられ、歴史的な建築の保存・活用が進められています。
中日ビルを訪れる前日に、文化のみちを歩いていくつかの建物を訪問したので紹介します。

上の写真は「文化のみち 二葉館」と呼ばれている建物です。

この建物は、日本の女優第一号と言われた川上貞奴と電力王と呼ばれた福沢桃介が、大正9年から15年まで暮らしていた建物です。もともとは現在の位置から500~600m離れた名古屋市東二葉町にありました。当時は「二葉御殿」と呼ばれていたそうです。

昭和12年に建物の半分は解体され、半分は大同製鋼の取締役だった川崎舎恒三が購入し、増改築して使用していました。のちに会社の所有となり、2000年に名古屋市に寄附されたので、移築復元して2005年から「文化のみち 二葉館」として公開するようになったとのことです。

一階の大広間。大広間の窓にはステンドグラスがはめ込まれています。こちらは西側の面。

こちらは南側の面。

階段を上がります。いいですねえ、この階段。

二階の様子。この写真の左側を奥に入って行くと和館になります。

和館部分の廊下。左は和室(旧婦人室)。

創建当初の建物を設計・施工したのは「あめりか屋」(明治42年創業)という洋風住宅専門会社でした。当時、接客本位の伝統的住宅を家族本位の住宅に改善しようという生活改善運動と連動して、あめりか屋の事業は非常に注目されたそうです。
明治時代、上流階級では和館の脇に洋館を建てる「和洋館並列型住宅」が広まりました。中流階級の住宅にも和館の玄関脇に西洋室を設けた「ミニ和洋館並列型住宅」が現れます。
大正期になると西洋館に和館を取り込んだ「洋館単独和室吸収型住宅」が出現しました。この旧川上貞奴邸は西洋館の背面に和館が付いているもので、「和洋館並列型」から「洋館単独和室吸収型」へ移行していく流れの中間的なものとして位置づけられるとのことです。
(この部分は、館内の説明板をもとに書きました。)

見学を終え、外を撮影。

近くに「旧豊田佐助邸」があるとのことなので、そちらに向かいます。豊田佐助は豊田佐吉の実弟です。

え?閉まってます。

門の内側に案内板があって、ここの開館時間は午前10時から午後3時30分までだと書いてありました。ただいま3時45分。事前に確かめていませんでした。残念。
なお案内板にありましたが、火木土曜日は「東区文化のみちガイドボランティアの会」の方が建物のガイドをしてくださるそうです。10:00〜12:00と、13:00〜15:00の間に行なうとのことです。ちなみにここは入館料は無料。

気を取り直して「文化のみち 橦木館(しゅもくかん)」へ。

橦木館の近くの公園(山吹谷公園)に魚が。写真撮っただけで通り過ぎてしまいました。近くによって確かめれば良かったかな。

ここが橦木館。写真は洋館部分ですが、この奥に和館がつながっています。
輸出陶磁器商・メーカー「井元商店」の社長、井元為三郎が大正末期から昭和初期にかけて建てた私邸だそうです。

ここは二階です。当時は娯楽室だったようです。窓の向こうに瓦屋根が見えていますが、それが和館部分です。
部屋の角(写真中央)にお皿が数枚並んでいますが、陶磁器の製作の流れを展示したものでした。陶土と整形に使う型、素焼きしたものと本焼したもの。絵付け(転写~彩色~金彩)まで並んでいました。

南側を向くと、ステンドグラスがありました。

1階に下りました。和館部分ではこの日は展示の準備をしていたので、写真は撮れませんでした。

そんなわけで庭の茶室を。

あと、現在は非公開ですが和館の奥にある東蔵は煉瓦造の蔵だそうです。外側を黒漆喰で仕上げてあるので外見からは煉瓦造とはわからないとのことでした。

さて、次の場所に移動します。
(つづく)

東海地方

Posted by Sakyo K.