大沢小学校の梯子

前回の記事では、梯子を設置した年について疑問を呈するような感想を書いてしまった。
このままでは気持ちがすっきりしないので、図書館で資料を閲覧した。
「大沢学校の歩み」(高畑松枝編集/佐久市立大沢小学校/1974年)だ。

書籍の画像はないので、1982年(昭和57)に撮影された大沢小学校閉校の記念写真の画像を掲載する。現在も旧大沢小学校に展示されている写真を私が撮影したものだ。

「大沢学校の歩み」は、80周年記念事業で作成されたものである。上の写真は記念誌の8年後なので、校舎の形はほぼ同じだと思っていいだろう。

書籍には校舎配置図(1974年時点)も掲載されていたので、まずそれを確認しよう。

現在も残っている本館は、中央に廊下があり、南と北それぞれに部屋がある。
1階の南側は、西から職員室、放送室、応接・校長室だった。北側は(西から)職員更衣室、職員図書室、工作室と書かれていた。
本館2階は西側の三分の一は廊下がなくて全体が図書館。東側は、廊下の南側に家庭科室、廊下の北側に映写室と第3資料室があった。

東校舎1階は(西から)第1資料室、1年生教室、2年生教室だ。
2階は(西から)第2資料室、3年生教室、4年生教室となっている。
二つの校舎の間には生徒昇降口があり、北側に講堂があった。
東校舎と講堂は1908年(明治41)に竣工した建物だ。

西校舎の方は、1階が(西から)理科室、理科準備室、保健室。
2階が(西から)音楽室、6年生教室、5年生教室、となっていた。
西校舎が建てられたのは1942年(昭和17)のことである。

前回の記事で少しだけ触れた「資料室」というのは一つではなく、本校舎2階と東校舎の1階2階の計3ヶ所に設置されている。
第1資料室には、農業関係の資料、第2資料室には古文書や教科書、生活用品などが展示された。第3資料室には土器や石器類、板碑などの出土品が収められていた。

資料室が設けられたのは1967年(昭和42)のこと。PTAも資料室設置のために他校の資料室を視察したそうだ。

さて。
年表を追っていっても、資料室の話は書かれていても屋根裏の梯子については書かれていない。
結局分からないままかなあと思いながら、歴代校長の文章を読んでいった。

そうしたら書いてあったのだ。
1965年8月から1969年3月まで大沢小学校に勤めた杉浦校長の文章があった。
(8月から勤めているのは、前任の校長が在職中に急死してしまったため。)

一部を引用する
「(校舎は不便と思われるだろうが)兎に角明治二十年代の建物として残され、あのようにがっちりしている、この近辺に数少ないと思われる。(…中略…)
 特に天井裏にのぼって見て驚いた。その梁組の見事なこと、俗に地域ではお城のようだと言われ、記録によると五十尺の梁材が二,三本使われている様子、惜し気もなく、学校の為めに使った村民性などからも、地域の先輩の教育に寄せる気心が伺えて嬉しい次第である。
 又ひとつには大沢には美林があったことは、これは後にのべたいが、忘れてはならない事実であろう。この見事な梁組を後輩に見せるためにわざわざ二階の廊下の一部を欠き、その便を与えてあるのもほほえましいことである」

梯子に書かれている年号、1967年に勤めていた学校長が、屋根裏を自分の目で見ているし、後輩…つまり児童に見せられるようにしてあったと言っているのである。

この文には1967年と年号までは書かれてはないが、杉浦校長が勤務した年と梯子に書かれた数字とに矛盾はない。なので、1967年から児童が屋根裏を見ることができるように梯子を掛けてあったことは間違いはないのだろう。(使わない時は外していたのかもしれないが。)

前回、疑うような感想を書いたことをお詫びする。
本当に調べて良かった。

さて、最後にもう一つ印象に残った部分を抜き書きする。
1969年4月から1973年3月まで勤めた五十川校長の文章だ。

(80周年について)「全区民によって記念事業を行なうには最も良い機会ではないかと考えた。
 それには先ず学校の沿革を明らかにしなければならない。そこで(昭和)45年終り頃から資料を集め始めたが、(…中略…)ようやく48年6月簡単な沿革表を作って全戸へ配布することができた。それを読んだ多くの方々から大いに関心を示す感想がよせられ、やはり沿革表を配って読んでいただいたことは意義があったと感じた次第である。」

学校というものは地域にとって大切であり、地域で支えなければならない存在だと改めて思った。

【参考】
「大沢学校の歩み」(高畑松枝編/佐久市立大沢小学校八十周年記念事業推進委員会/1974年)

甲信越地方

Posted by Sakyo K.