御曹子橋の名前の由来 (2)
(つづき)
川沿いの遊歩道を歩いていったところ、神社に到着した。
しかし神社の名前が分からない。
石灯籠も確認したのだが,結局私は神社名を見つけることができなかった。
どこかに書かれているのに見落としているのかなあ。
場所から考えるとここが御曹子社で間違いはないと思うんだけど、断言ができない。
結局分からないまま遊歩道を先に進んだ。
100mくらい歩いたところで車道に合流したので、後は車道を歩いて御曹子橋に戻った。
橋の上から下流を眺める。
あ、この岩は「亀岩」じゃないかな。絵図面では亀岩が二つ書かれていたけど,左側の小さい岩なら「亀」って言われたら納得できる。右側の大きい岩が親亀か?
前回も見た色あせた看板。うっすら文字が見えるが,新橋と旧橋の二つが描かれ,旧橋につながる道路は新橋の下を通っている。黄色の文字は私が写真に書き込んだもの。
橋の下を見たらアスファルトで舗装されていたので,ここが旧橋につながる道(図のA)だったのだろうか。人が通るような高さではないので,橋の工事が始まったら図のBを通っていたのかもしれない。
古い道が残っているかどうか、橋の右側も見てみたが,道は残っていないようだ。
石碑を建てる場所を整地したようなので,埋もれてしまったのかも知れない。
現地調査はここまでとした。
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さて、神社はあったが、名前をどう確認すればいいだろう。近所のお宅を訪問して聞いてみようか。
あ、住宅地図なら書かれているんじゃないかな。
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後日。住宅地図を閲覧しに図書館に行った。
しかし…書いてないよ。
大岡村は2005年に長野市に合併したので,合併前の古い住宅地図も閲覧したけれど,神社は存在しないことになってる。
他の書籍も確認しよう。
「大岡村誌 歴史編」(1998年)に、明治時代に作成された神社一覧表が載っていたが,御曹子社の名前は見当たらない。
どういうこと? 神社は現実に存在してるのに。
大岡村の名前で検索して「ひじり 大岡郷村誌」(丸山彪)という本を見つけた。
そこに次のような文があった。
「越中川御曹子は源氏に因縁する遺跡祠であると伝承されている。信府統記によれば(…中略…)その頃金戸と云う処に蒲の御曹子範頼が忍び居る処を鎌倉より追っ手を向けられ金戸の城を後略され越中川に至った範頼主従8人ここに生害したこと、範頼夫婦の木像が祀られていると記されている。」
ただし、著者は、範頼は別の場所で亡くなったはずなので、この説は事実とは違うだろうと書いている。
範頼の死については伊豆に流されて死んだということになっているが、異説もあるらしい。だからこういう伝説が生まれ、御曹子社という名前になったのだろうか。
しかし、この文を読んでも,今ある神社が御曹子社であるという確認はできないのだ。
行き詰まってパラパラと本をめくっていると,本の冒頭に口絵写真が掲載されていることに気付いた。それを見ていくと,「社祠(御曽子)」と書かれている写真が載っているではないか!
「曹」が「曽」の字になってはいるけれど、この写真が御曹子社なのだろう。
書籍の写真は掲載しないが,私が撮った次の写真とほぼ同じ角度である。
比べたところ,石灯籠・鳥居の柱の位置,引き戸の桟,瓦の模様も一致している。
書籍の写真では鳥居の前には木が生えているが、後に切られたようで今は切り株がある。
私の撮影した写真と,書籍の御曹子社は同じ物だと私は判断した。
上の写真は切り抜いたものなので,全体が写っている写真も掲載しておく。
この神社が御曹子社であるのは、確定してもよいと思う。
そして「御曹子橋は近くにあった神社御曹子社から命名された」という説は,証明はできないけれど、私の中では納得できたのである。
【参考】
「ひじり 大岡郷村誌」(丸山彪著/1976年)
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