旧片倉組事務所
岡谷市の近代化産業遺産群の建物の見学をしている。
旧片倉組事務所は、現在も中央印刷の社屋として使われており、内部の見学はできないので道路から見せてもらった。

私が訪れたのは休日だったので入り口はチェーンが張られている。
正門の所から撮影した。

片倉組は日本最大の製糸工場だった。
1873年(明治6)に片倉市助は自宅前の小屋で座繰製糸を始めた。
市助の長男の(初代)片倉兼太郎(1850-1917)が、1878年(明治11)に垣外製糸場を設立した。これが片倉組の発祥である。
垣外製糸場を設立した兼太郎は、同じ年に輸出業の深沢社を設立し、翌年には尾澤金左衛門・林倉太郎らと開明社を設立し、製糸業を拡大していく。
そして1895年(明治28)に片倉組を設立した。
この建物が建てられたのは1910年(明治43)で、垣外製糸場の敷地に片倉組本部事務所として建設された。

説明板があるのでズームで撮影した。
建物の説明は以下のように記されている。
「レンガ風タイル貼洋風事務所
明治43年に建設された事務所は木造2階建て、人造石の柱型にレンガ風のタイルを貼っている。応接室の洋風飾り棚はガラスに松のステンドグラス、下部の板扉に松林の象嵌を施すなど和風のモチーフを取り込んだ見事なつくりである。」
というわけで、壁はレンガ風のタイルだった。

これは玄関とは反対側、西側壁面の一部。
屋根は当初は瓦葺きだったようだが、現在は銅板葺きになっている。

片倉組は1920年(大正9)に片倉製糸紡績株式会社となり、経営の近代化を進めた。この時に製糸工場は18あり、日本最大の規模であった。
なお2014年に世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸場も、1939年(昭和14)に片倉の所有となり、片倉富岡製糸所という名前になった。戦時中は政府の統制により日本蚕糸統制株式会社に施設を移管(形式上は賃貸)したが、戦後に片倉の所有に戻って片倉工業株式会社富岡工場として操業を続けた。
片倉工業は「売らない、貸さない、壊さない」という方針を堅持し、富岡工場閉鎖(1987年)後も維持管理を行なってきたという。
片倉の取り組みがあったからこそ富岡製糸場が良好な状態で保存されたということで、高く評価されている。
話を旧片倉組事務所の方に戻そう。
現在ここは中央印刷の敷地になっている。
中央印刷というのは、片倉の印刷部局が1947年に独立してできた会社である。この会社が事務所を引き継いで現在も利用しているのだ。
建物は1996年(平成8)に国の登録有形文化財に登録され、2007年(平成19)に近代化産業遺産群に認定された。
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