昭和橋 (2)
昭和橋を渡り終え、国道18号線との交差点に到着した。
左側の吊り材(柱のように見える部分)には、二輪車用の信号押しボタンが設置されている。その奥の吊り材には、この写真では字は読めないが「土木学会選奨土木遺産」のプレートが取り付けられていた。
国道から橋を眺める。
少し下流側に移動した。
今度は上流側に移動。
では再び歩いて橋を渡ろう。
上流側の風景。
500m上流側にある坂城大橋が見える。1987年に開通した橋だ。
桁の連結部分。
吊り材を補修した部分。
鉄筋コンクリート部分を通りすぎ、鉄橋部分に来た。
橋を渡り終えた。この写真は分かりにくいが、橋の側面だ。左端に親柱が写っている。
橋の横に小道があるので、ちょっと行ってみよう。
橋桁には2019年に塗装をしたという記録が書かれていた。
橋の横を進んでいく。このあたりは橋の右側は農地として使われている。
鉄筋コンクリート橋の下部に入った。ここから向こうは川原のようだ。これ以上は進めない感じなので、ここで引き返す。
橋の下に通っている楕円形のパイプは、NTTのケーブルのようだ。
左側に見えるステンレスのパイプには水道を通しているらしい。
戻りながら橋脚を撮影。
橋の下をくぐって西側から撮影。水道管の上部にトラスを組んで補強しているのだろう。
最初の場所に戻ってきた。
前回書いたように、ここには「昭和六年、東京石川島造船所製作」というプレートが付けられている。
では昭和橋の歴史を再確認していこう。
最初の木橋が建造されたのが1928年。千曲川左岸の村上村と右岸の坂城町が合同で架けた橋だった。
橋はできたが、木橋は水害で流されやすかったので、地元では永久橋を望む声が上がっていた。
1935年、村上村と坂城町に加え室賀村も参加して永久橋建設の計画が動き始めた。しかし町村道のため、3か町村では費用にも限度がある。そのためまずは坂城側の3径間だけ鉄筋コンクリート・ローゼ桁橋を架けることにした。橋が完成したのは1937年だ。
その後も、洪水の際には木橋部分が流された。
1947年、昭和橋は県道となった。
1949年のキティ台風でまた木橋が流されたので、いよいよ鉄筋コンクリート橋の建造が進めらることとなった。橋の建築が災害復旧工事として認められたのだ。1950年11月着工し、1952年11月に竣工した。
しかし南側は木造の仮橋のままだったので、自動車の増加に伴い交通が円滑にいかなくなった。
そのため南側も永久橋とすることになり、1964年9月、昭和橋二号橋が完成した。
この鉄橋は、生坂村の国道19号線に架かっていた犀川の鉄橋を加工して架け直したものであるという。もとの鉄橋(ゲルバーガーター橋)は1931年(昭和6)に製作されたものだそうだ。(「昭和橋パンフレット」より)
つまり、昭和橋の南端に設置されているプレートは、移築前の鉄橋に付けられていたプレートなのだろう。移築後に、そのプレートを親柱の上部に付け直したのだと思う。
坂城町の資料には、どの橋を移築したのか具体的な名前が記されていない。
生坂村の国道19号で犀川に架かっていた橋ということであれば、該当しそうなのは安曇野市と生坂村境界にある睦橋ではないかと思う。
「目で見る明科史」によると、(旧)睦橋の竣工が1931年(昭和6)12月であり、その後新しい睦橋が1962年3月に竣工している。新しい橋の長さが124mだというので、長さも矛盾はない。
同書に昭和13年に撮影された睦橋の写真も掲載されているので引用する。橋の形から、現在の昭和橋二号橋と同じものだと判断してよいだろう。(5枚前の写真などを参照)
話を戻そう。
1970年代、自動車交通の増加により昭和橋は渋滞がひどくなった。このため上流側500mの位置に新たに坂城大橋が造られることになった。
計画は1974年に始まり、橋本体は1981年起工して1987年に開通した。
この橋ができるまでは昭和橋が県道だったが、完成後は坂城大橋が県道となり、昭和橋は町道に戻った。
そして2002年、土木遺産に選奨された。
中島武(1906-1980)は札幌出身で、茨城県・岐阜県の技師を経て、1933年に長野県の技師として赴任した。3年半の任期の間に、鉄筋コンクリート・ローゼ桁の橋を7つ設計した。
7つの橋とは、
・大手橋(木曽町)1936年竣工
・親沢橋(小谷村)1937年竣工
・姫川橋(小谷村)1937年竣工
・昭和橋(坂城町)1937年竣工
・栄橋(佐久穂町)1938年竣工
・境橋(東御市)1939年竣工(1972年撤去)
・腰越橋(上田市)1939年竣工(1992年撤去)
である。(地名は現在の市町村名)
このうち、現存している5つの橋が、2002年に土木遺産に選奨された。
選奨理由には「長野県技師 中島武の創意によって生まれた世界最初の鉄筋コンクリート・ローゼ桁の一群」とある。
1950年代から60年代にも長野県内ではコンクリートローゼ桁橋が30ほど架設された。他には岡山県と山口県に3例ずつあるだけらしく、長野県の橋は突出して多い数だという。これも中島の影響だろう。
昭和橋以外の4つの橋も、いつか確認したいと思っている。
【参考】
「坂城町誌下巻(歴史編2)」(坂城町誌刊行会/1981)
「目で見る明科史」(目で見る明科史発行委員会/1977)
「昭和橋パンフレット」(坂城町/2023)
「中島武設計のRCローゼ桁群」公益社団法人土木学会サイトより
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