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宇都宮建物巡り(2)

県庁から南へ700mほど歩き,右に曲がると,この建物が見えます。

カトリック松が峰教会です。

宇都宮のカトリック教会は1888(明治21)年に川向町で創立されたのですが、移転して現在地に最初の聖堂ができたのが1910年のことでした。その後信徒が増え本格的な聖堂建設が計画されます。教会関係の建築を手がけていたマックス・ヒンデルに依頼し,1931(昭和6)年に着工し翌年完成しました。

 
鉄筋コンクリート造り,大谷石仕上げ,銅板葺きで双尖塔をもち、塔部が4階建て,他は2階建てとなっています。
1945年には空襲で屋根が焼け落ちましたが,終戦後に修復されました。
1978年に設置されたパイプオルガンは,北関東では最初の本格的なパイプオルガンとのこと。建物は1998年に登録有形文化財に登録されました。(参考:教会パンフレット)

建物の正面のスペースがあまり広くないので,正面からの写真が撮りにくいです。

階段を上がって2階入り口から入ります。

内部の写真は少しだけ。

外に回ります。何か飛び出していますが…カエル?

この写真の右側の部分はエレベーター塔だそうです。2001年の修復工事の時にエレベーターが設置されました。その雨どいの部分がカエルの彫刻になっているのです。

カエルをズームアップ。もしかして長靴履いてる?

見回すと,壁面に説明板がはめ込まれていました。(説明版は2004年の設置)
それによると、これは「カン蛙(かんがえる)」なのだそうです。
宮沢賢治の童話に「蛙のゴム靴」という作品があり、3疋登場する蛙のうちの1疋が「カン蛙」です。宮沢賢治は,盛岡天主公教会のアルマン・プジェ神父と親交があり、
「さわやかに 朝の祈りの鐘鳴れと 願いて過ぎぬ 君が教会」(君=プジェ神父)という短歌も詠んでいます(大正5年)。プジェ神父は昭和6年に第3代主任司祭として松が峰教会に着任しました。
また、大谷石を細工して作る蛙の置物は,古くから大谷特産品として地域で作られています。大谷石造りの教会にふさわしく、また聖堂の歴史にゆかりのあるガーゴイル(飾り桶)として製作されたとのことです。
(以上説明版を参考に記述)
童話の中でカン蛙はゴム靴を手に入れたというので、確かにこれはゴム長靴なのですね。

大谷石を使った建築はあちこちで見ることができました。教会の入口の向かいにも一軒。飲食店として営業中でした。

さて、移動します。
次にやって来たのは,宇都宮城址公園です。宇都宮城は戊辰戦争で建物の大半が焼失してしまいました。現在の土塁や堀、櫓、土塀は復元したものです。

これは、本丸の土塁北西部にあった櫓「清明台」です(復元)。

もうひとつ、「富士見櫓」も復元されていました。中に入ってみましたが,階段はあるものの上れません。ぐるっと一周してすぐ出てきちゃいました。上がれるといいのにねえ。

あとでネットで確認したら,時間を決めて入れるようにしているということでした。毎月第3日曜日の11:00~14:00とのこと。え~短くないですか? …まあ安全管理とかいろいろあるのでしょう。

櫓から出て土塁を降りると,下に「清明館」という建物があります。その中に歴史展示室があって資料関係はそちらで見ることができました。入場無料です。

でも資料より,和室の楽しそうな声の方が印象に残ってしまいました。清明館には和室があって、市民が茶道や華道,その他伝統文化活動の場として使えるようになっているのです(有料)。障子が閉まっていて見えませんが,中からとても楽しそうな声や笑いが聞こえていたのです。いいわねえ、などと思っていたら歴史の話が頭から消えてしまいました。(良い意味で書いてるんですよ。)

さて、ここから今度は東に向かいます。いちょう通りを進み、田川を渡ります。
橋を渡ったら,何やら不思議な石碑が。

普通の石碑だったら多分そのまま通り過ぎたと思いますが,読みやすくするためか文字を白く塗ってあり,しかもそれが流れていてちょっと不気味な石碑になってしまっているのです。そんなわけで、これは確かめばなるまいと近くに寄りました。

石碑の文を書き起こします。(句読点はなかったので適宜補いました)

改修記念
 簗瀬用水
 川田用水
 金井田用水
 欠下用水
本灌漑施設は田川改修事業の一環たる附帯工事にて縣が其の計画に基き施行し。改修前に於ける田川は多くの用水堰にて堰止められ、之が出水時には常に宇都宮市大災害の原因となり。為に、従来四個所の潅漑用固定堰を壱個所に統合する計画を樹立したが,用水こそは実に農業經営の基幹であり、且各用水堰には夫々歴史と傳統を有し、取水條件にも従来甚だしい相違がある為、之が解決は実に容易ならざる問題であった。併し縣当局は灌漑に関する従来の利益を保証する約束の基に,各用水組合は之を了とし遂に難航を極めた用水堰統合の問題も円満なる妥結を見。縣は工事に着手し、旧簗瀬堰附近に可動堰を設け簗瀬川田両用水は新水路に統合取水し分水堰により従来の取水状況を考慮し分水率を決定の上分水し旧用水路と接続、又欠下金井田両用水は本可動堰より取水暗渠んて釜川に取り入れ新水路より分水し旧用水路と接続せしめたものなり。茲に工事竣工し建碑により之を永久に記念す。

日付は裏面に書いてありました。

着工 昭和二十七年四月一日
竣功 昭和三十二年一月八日

田川はもともと暴れ川として有名だったようで何度も洪水に見舞われています。
この石碑が建てられる前,1947(昭和22)年のカスリーン台風の時も洪水がありました。床上・床下浸水が7,000戸以上の被害を受けています。
1948(昭和23)年に内閣総理大臣の決定により,河内郡豊郷村大曽から宇都宮市簗瀬町までの3kmを「宇都宮特別都市計画河川改修」として実施することになりました。
この決定に基づき,県は1951年に栃木県田川改修事務所を設置し,改修区間を4.8kmに延長して(山田川と田川の合流地点から宇都宮駅南の鉄橋まで),工事を行ないました。
橋の掛け替えや,護岸工事,可動堰の工事がなされたとのことです。
上の石碑にある灌漑施設工事は、この河川改修事業のときに附帯工事として行われたものなのでしょう。
(参考:「宇都宮の下水道の歴史」)
(これを読むと水害だけでなく,川の汚染も大問題だったようです。)

さて、まだ東に歩きます。
次の目的地は宇都宮大学です。
(つづく)

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