築地本願寺の建築を見る

伊東忠太設計の本願寺伝道院の話を書いたので、彼の設計の築地本願寺(東京都中央区)にも触れたいと思います。
写真で初めて築地本願寺の建物を見た時,「異様な建物」だと思いました。自分の知っている「寺院」のイメージからかけ離れていたからです。その後慣れて、”異様”から”おもしろい”に見方が変わりましたけど。

実際に見に行きましたが、やっぱりおもしろい建築です。この写真は歩道橋を渡りながら撮影しましたが,お寺というより何かのパビリオンみたいです。

築地本願寺は,1617(元和3)年に西本願寺の別院として浅草・横山町に建てられたのが始まりです。当時は「江戸浅草御坊」と呼ばれたそうです。

1657(明暦3)年の大火で焼失,大火後の区画整理で幕府により八丁堀の海上が指定され,佃島の門徒が中心になって埋立を行ない,1679(延宝7)年に「築地御坊」として再建されました。幕府って移転先に海上の浅瀬を命じたってことですか? それもすごいですね。

1923(大正12)年の関東大震災で周辺からの延焼により、宝蔵と破損した太子堂を残して全焼してしまいます。
同年帝都復興事務所が開設され,別院を復興することになりました。その後の検討を経て1930(昭和5)年に,伊東忠太の設計、松井組の請負で復興が決まったのです。

起工 昭和6年 4月15日
竣工 昭和9年 6月25日

建物を鉄筋コンクリート造りで建てることを、大正13年の時点で伊東忠太は主張していました。
また、”本願寺の依頼を受けて設計し,純日本式と印度式の両方を設計したところ,寺によって印度式が選定された”との伊東の話しが、東京朝日新聞の連載(1935年6月)に掲載されているそうです。

なぜ、インド式かというと、仏教はインドの発祥とされるから,ということのようです。伊東は、中国において僧侶が住む家が寺院の機能を果たすスタイルが日本に定着していることに違和感を覚え,かつての壮麗なインドの仏殿を取り入れるべきだと考えていました。
しかし、伊東独自の解釈でインドの古代仏教建築の要素や細部を素材として組み合わせたため,特異な形の仏教寺院ができあがったということのようです。

中に大本堂のある中央部。銅板で葺いた円形屋根がのせられています。入口の上の破風の形も独特。

向かって右側です。屋根の上に鼓楼があります。この写真では鼓楼の右側にちょっと新しい建物がつながっているように見えますが、これはすぐ隣に建てられた第一伝道館で、本堂とは別の棟です。

こちらは、向かって左側の翼部。こちらの小塔は鐘楼とのこと。

大本堂の入口を守る獅子の像。本堂に向かって右側に設置されている像の方です。

階段を上がって、扉の前で撮影。3つある入口の右側の扉です。この奥に大本堂が広がっています。

内部ではコンサートを行なう準備をしていましたが、「フラッシュ・動画撮影禁止」と表示されていたので、静止画は良いのだろうと判断し、人が写らないように撮影。中央ではなく、入って左側の柱や天井です。

内装については日本の伝統的な意匠となっていますが、当初の伊東の案とは異なっているということで,寺院側からの要望もあったようです。

本堂向かって左側の獅子は、後ろ姿を撮影してみました。

本堂の階段脇に入口があり、一階部分に入れます。中はロビーになっていました。

入ってみたら、説明表示が。
「こちらの扉は、創建当時のものをそのままの形で保存しております。塗装が大変脆くなっておりますので、お手を触れないようにお願いいたします。なお、この扉は開きません。」

こういう部分を残しているのですね。

ロビーから奥は勝手に入っていける雰囲気ではないので、ここまでにしました。

築地本願寺は2010年に本堂の劣化状況調査が行なわれ,2011年から修復工事が行なわれました。修復箇所は、(1)内陣の修復,(2)外陣の安全対策と清掃,(3)本堂上部の屋根防水改修、(4)照明・音響設備の改修、です。

最後の写真は、本堂正面階段脇にある重要文化財の標柱です。

本堂と,築地本願寺の敷地外周を囲う石塀は、2011年7月に有形文化財として登録されました。その後2014年12月に重要文化財となったようです。(だから中央区教育委員会の説明板も新しい。)
実は訪問時には石塀も文化財になっていると知らず、全然見ずに済ませてしまいましたよ…。いろんな動物たちもチェックし損ねたし、何やってるんだか。いつも下調べをろくにしないのでいけない。

【参考】
「築地本願寺本堂修復工事報告書」2013年10月(株式会社三菱地所設計 編集)
・築地本願寺に設置されている説明板(2015年3月, 中央区教育委員会 設置)

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