旧野方配水塔のポップアップカード

2021-12-31

メインサイトを更新しました。今回は東京都の建築です。
写真のカードは、中野区にある旧野方配水塔がモデルです。

1923年(大正12)の関東大震災後、当時の東京市から避難して郊外に移住する人が増えました。
そのため地下水が不足するようになり、当時の豊多摩郡、北豊島郡の13町村は荒玉水道町村組合を設立し、水道の設置を申請しました。

正確ではありませんが、白地図に概略を描き込みました。薄い赤部分が1924年時点での東京市域、薄緑の部分が、荒玉水道町村組合に加入した町村です。

1924年の4月に町村聯合協議会を開き、調査費予算を議決しました。そして7月に水道の権威である工学博士、中島鋭治に調査設計を依頼します。

計画は、多摩川の水を砧村(現在の世田谷区)で取水し浄水場で濾過したものを、新設した野方配水塔(豊多摩郡野方町=現在の中野区)と大谷口配水塔(北豊島郡上板橋村=現在の板橋区)に送水して各町村に給水するというものでした。

1925年2月には事業が正式決定されたのですが、同じ2月に中島鋭治は亡くなってしまいます。
その後を受けて西大條覚(にしおおえだ さとる)が技師長に就任して12月に起工式を行ない、水源地の工事、送水本管の埋設、配水塔の築造、配水鉄管の敷設などの工事を進めていきました。
全ての工事が完了したのが1930年(昭和5)5月のことだそうです。
なお、荒玉水道町村組合は、1937年に東京市水道に併合されました。

2つの配水塔はほぼ同じ外観で建てられました。大谷口配水塔は1925年着工で1931年竣工、野方配水塔は1926年着工1929年竣工でした。
中島鋭治の死後に配水塔の設計変更がなされているそうで、そのためか「設計者は中島鋭治と言われていたが実は違う」というような表記が、wikipediaではされています。

大谷口配水塔の方は2005年に解体されました。跡地に建てられた大谷口給水所のポンプ棟(2011年竣工)は、かつての給水塔のデザインを取り入れています。

野方配水塔は配水塔としては1966年で使用が終わり、その後は2005年まで災害時の給水槽として使われていました。2010年に登録有形文化財に登録され、現在は中野区が管理しています。

カードについて

表慶館でドーム部分の作り方をいくつか試しましたが、この配水塔の場合は縦方向の面を主とした構造でつくることにしました。本体部分が縦方向のパーツになっているので、そちらと繋がって統一感が出るような気がします。
型紙を公開していますので、よろしかったらお試しください。

なお、先日ブログに書いた国会議事堂と表慶館のページも写真の差し替えをしてありますので、あわせてご覧下さい。

【追記】
(2020.07.07) 地図を差し替えました。
(2020.07.08) 地図の微修正。
(2021.12.31) 型紙公開は終了しました。

【参考】
「豊島区大総覧 皇紀2597年度版」すがも新聞社 1938年