再び拾ヶ堰へ(3)

2023-03-21

安曇野市豊科郷土博物館にやってきた。
最近発見された、「筑摩縣管轄信濃國安曇郡拾ヶ新堰図」が、3日間だけここで特別公開されたのだ。

午前と午後の二回、時間を決めて公開したので、行ったときには駐車場はほぼ満車。地元の関心も高いようである。館内でもしばらく待機してから二階に上がって見学した。

最初に説明をしていただいてから、絵図を見る。
写真撮影は可能だということなので、喜んで撮影した。今後、デジタル画像で公開することになっているそうなので、数枚なら私が写真をブログに掲載しても構わないだろう。

この絵図は、直線上の絵巻物ではなく、実際の地形に沿って紙を曲げて貼り合わせている。
絵図全体が入るように撮影したが、手前が取水口。「大曲」で右折して、右奥が放水口になっている。

ネット上で新聞社の記事を見ると、見た限りでは『筑摩県管轄信濃国安曇郡拾ケ堰絵図』と表記しているのだが、実物を見たら微妙に違っていた。

絵図のタイトルは「筑摩縣管轄信濃國安曇郡拾ヶ堰図」となっていた。「拾ヶ堰」ではなく「拾ヶ新堰」だ。これは、拾ヶ堰以前に作られていた堰もあるので、拾ヶ堰が出来た当初は「新堰」とも呼ばれていたらということしい。

筑摩県は、信濃国の伊那県・高島県・高遠県・飯田県・松本県、そして飛騨国高山県が統合して1871年(明治4)に誕生した県である。1876年(明治9)には、信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県に合併して、筑摩県は廃止された。そんなわけで、「筑摩県」と表記のあるこの絵図は、この数年間のうちに描かれたものであろうと推定される。

これは拾ヶ堰が大きく右に曲がる「大曲」の部分だが、紙を斜めに折り畳みながら絵巻状に巻いてあったようだ。

ここには道路や橋が描かれている。左上には「上堀金村産土社」とあるので、北浦の諏訪社のことだろう。

「下堀金村産土社」もあった。これは現在の下堀扇町諏訪神社だと思われる。

左側に「ウハヒ」と見えるが、これは「上樋」だろう。

「ソコヒ」「ソコ樋」という表記もあった。こちらは「底樋」のことだな。勘左衛門堰は、現在も拾ヶ堰の下をくぐっている。勘左衛門堰の歴史は拾ヶ堰よりも古く、1685年に完成したらしい。そういう堰がいくつもあるので、1816年に開通した拾ヶ堰が「新堰」と呼ばれたのも当然だなあと思った。

これで、豊科郷土博物館の話は終わりである。

さて、まだ日は高いので、もう少しだけ自転車で走ることにする。勘左衛門堰が拾ヶ堰をくぐるところを、昨年は確認していなかったので、そこを見に行くことにした。
今度は豊科南部総合公園に車を置いて、拾ヶ堰沿いを下ろう。

公園の南では工事をやっていた。安曇野市の新総合体育館の建設らしい。

自転車道を走っていたら、対岸に新しい石碑が見えた。橋があったので渡って確認した。

「祝沢」と書いて「ほうりざわ」と振り仮名がふってある。
その下の文字を書き写す。
「拾ヶ堰祝沢上樋跡(拾ヶ堰をまたぐ水路)
 嘉永二年以降明治初年頃まで拾ヶ堰では物資輸送のため通船がおこなわれ、柏原村役人から下鳥羽村の役人に通船時に上樋取り外しの願い出があった。また、安政七年以降上樋の資材は松本藩より支給されていた」

碑が建てられたのは平成28年12月とある。
いつごろまで上樋はあったのだろう。

勘左衛門堰のところへ到着。写真の中央の水路が勘左衛門堰で、拾ヶ堰は右端のフェンスの向こうだ。拾ヶ堰には合流せずに下をくぐっているというので、近づいて確認する。

平成元年(1989)三月の竣工だというプレートがついていた。水は流れているのだが、どれくらいの深さのところに穴があるのか分からない。水面ではペットボトルが踊っていた。

本来なら拾ヶ堰をくぐった後に水が出てくる場所も確認すべきなのだが、だいぶ疲れてしまったので気力がなかった。ここで引き返すことにした。

戻る途中、線路沿いに石碑を見つけたので、最後にここを確認して終了。

「県営大規模用排水施設整備事業 改良記念」と書かれていた。
裏側を見たら、1976年に着工し、1990年に完了した工事だった。梓川のサイホン出口から、明盛地区(この石碑があるところ)までの部分の水路約3.6kmを三面貼り舗装とし、自転車道の工事も行なったのだという。

これで車に戻り、この日のサイクリングは終わったのだった。

以上で、拾ヶ堰の記事は終わりです。

自転車

Posted by Sakyo K.