旧村山橋

ブログの更新は遅くなってしまったが、前の記事と同じ日の話である。
長沼支所や体育館から2.5kmほど南へ移動すると、千曲川を渡る村山橋がある。
この橋を渡ると須坂市だ。

現在の村山橋は2004年(上り線2車線)と2008年(下り線2車線)に架けられたものである。
その前は、1926年に完成した(旧)村山橋が使われていた。
橋の東側に、その旧橋を記念した「村山橋メモリアルパーク」があるというので、それを見に行った。

メモリアルパークの様子。長野から須坂に向かうと、橋を渡って左側だ。
鉄骨と橋の親柱が設置されているようだ。

メモリアルパークの説明板には、次のように書かれている。

「旧村山橋は、大正15年に竣工し、当時は長野電鉄の鉄道橋と国道406号の道路橋が併用された全国でも大変珍しい橋でした。供用83年を経て、老朽化のため新村山橋に架け替えられましたが、長い間、長野市と須坂市を結ぶ重要な施設として、地元の皆様に親しまれてきました。また近代土木遺産としての価値も高いことから、旧村山橋の部材を使った道路休憩施設として、整備しました。
平成23年12月」

モニュメントに近づいた。左右に親柱、中央にトラス橋の一部分を切り取ったものが設置されている。

親柱は、製糸業の糸巻きをモチーフにデザインしたものだという。当時は須坂市は製糸業が全盛だった時期である。
埋め込みモニュメントは、写真では分かりにくいが、道路橋と鉄道橋の断面を復元したものだそうだ。

1888年(明治21)、信越本線の軽井沢・直江津間が開通して、長野駅・豊野駅が設置された。須坂から繭や生糸を運ぶ窓口は豊野駅であった(上の地図では枠外)。
1898年(明治31)に吉田駅(現在の北長野駅)が設置され、それ以後は吉田駅経由で商品が運ばれるようになった。
吉田駅と須坂町を結ぶ交通の整備が要望され、当時あった舟橋(船を並べてその上に橋を架けたもの)を県営化する要望や、馬車鉄道設立の請願などが出された。
また、1918年(大正7)には須坂-吉田間に索道を架け、米子鉱山の硫黄を吉田駅へ、吉田駅からは石炭を須坂へ輸送している。

鉄道の方は、1920年に河東かとう鉄道株式会社が設立され、1922年に須坂-屋代間が開通した。翌年には信州中野まで路線を延ばしている。
一方、須坂と長野の間は、1923年に長野電気鉄道株式会社を別に設置して敷設にあたった(社長は、河東鉄道の神津こうづ藤平とうへい)。工事は1924年に始まったが、難関は村山橋の架橋だった。

社長の神津は単独での架橋は無理と考え、県道村山橋(舟橋)の永久橋化が行われようとする時期だったので、長野県に共同架設を出願した。
工事は1924年5月に認可され、11月に着工した。橋の全長813mほどで、長野側のトラス7連(支間50.292m)が道路と鉄道共同架設部分である。

設計は東京で橋梁設計事務所を開いていた増田淳が担当し、橋台と橋脚は京都の矢野組、鉄橋架橋は川崎造船所が請け負った。工事監督は長野県が行ない、1926年4月に完成した。鉄道は6月に開通したが、道路の開通は翌年であった。

メモリアルパークには、村山橋の架橋の様子がパネルにして設置されている。

上の写真では小さくて分かりにくいので、一部を拡大した。

長野電鉄の開通により、長野-吉田間の索道、中牛馬、乗り合い馬車も廃止された。
また、工事が完了する頃長野電気鉄道と河東鉄道の合併の話がもちあがり、1926年9月に臨時株主総会が開かれ、会社名を長野電鉄株式会社に改めることが決められた。

なお、最初の地図は現在の状況だが、須坂と屋代を結んでいた路線は2012年に廃線となり線路は撤去済みなのでグレーで表記してある。

昭和40年代にマイカーが普及するようになると、橋幅が狭いために交通のネックとなるようになった。歩道もなかったため、大型車のすれ違いや歩行者の通行に支障をきたし、慢性的な交通渋滞を引き起こしていた。
そのため新村山橋の架橋が計画され(1990年事業着手)、2004年にまずは旧橋の南側に2車線の橋が開通した。その後2008年に隣に2車線の橋が完成し、上り下り2車線ずつの新村山橋が開通した。

この図は、メモリアルパークの表示板の一部を撮影したもの。

最後の写真はパークの駐車スペース。車止めにレールが使われていた。

旧村山橋は、2009年11月に渡り納め式が行われ、その後解体された。上に書いたように、2011年(平成23)に、メモリアルパークとして整備された。

【参考】
「建設業界」1991年9月号(日本土木工業協会)
「須坂市史」(須坂市/1981年)

歴史・資料

Posted by Sakyo K.