松本の擬洋風建築(1)
松本市歴史の里(博物館)で、建築講座パネル展「松本のたてもの2021 ~街を彩った擬洋風建築~」が開かれているので見学してきた。
門の奥に見える建物は、松本城の二の丸御殿跡にあった旧松本区裁判所を1982年(昭和57)に現在の場所に移築したものである。
3年前に訪れてブログにも書いた。(過去記事)
3年ぶりだったので一応、受付で撮影の可否について改めて尋ねた。前回は撮影可ということでブログにも写真を掲載したのだが、今回は「撮影して個人で見る分には構わないのだが、SNSとかにアップするのは止めて欲しい」ということだった。
規則が変わったのか、それともパネル展示があるのでそのためか、詳しく尋ねなかったので分からないが、今回は中の写真は掲載を見送ることにする。
パネル展は、玄関から入って左奥、裁判所時代は登記室だったという部屋に展示されている。
松本に現存する擬洋風建築、および過去に存在した建築を中心にパネル展である。
擬洋風建築は日本の伝統的な建築技術と建築材料を用いて西洋風の建築を建てたもので、明治10年(1877)頃が最盛期、明治20年頃には衰退したそうだ。
松本では国宝になった旧開智学校が有名なので当然そのパネルもあったが、この記事では説明が書かれていたパネルのうち、現存していない建物を選んで書くことにする。
でも写真か絵がなければ記事も伝わらないと思うので、写真の代わりに私のお絵描きで代用することにした。
1) 埴原(はいばら)学校
松本の南東の中山(明治時代は中山村)にあった学校。資料としては仙石翠淵(せんごく すいえん)の描いた「埴原学校絵図」だけしかなく、「大工棟梁や具体的な建設地なども分かっていない」(パネルの説明より)とのこと。
明治のことなのに具体的な建築場所が分かっていないって、なんか不思議な…というかありえないでしょう?という気分である。
絵図を見ると塔屋をもつ漆喰塗りの建物が描かれている。
これは私が描き写したもの。木で隠れた部分と画面からはみ出した部分(左側)を想像で補っている。
竣工年は、パネルでは明治8年(1875)とあったが、後で確認した松本市立博物館ニュース(No.169)には明治8年着工11年竣工とあった。
1936年(昭和11)に刊行された「長野縣町村誌 南信編」の中山村のところには次のような記載がある(p121)。
「【公立埴原學校】本村字町村にあり。生徒百八十五名、内男百十九名、女六十六名、元資金貳千八百圓、明治六年より起立し、同八年有志の元資金を募らせ、學校新築す。」
竣工年が書いてないのではっきり分からないが、文章からは1875年というのは資金集めが始まった年で、建物の完成年ではないような印象を受ける。
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブのサイトに中山村絵図が掲載されているのを見つけた。これを見ると中央に埴原学校も描かれている。
地図には「第五大區四小區 信濃國筑摩郡中山村全図」とあるので、大区小区制が施行されていた明治5年から11年頃の作図ではないかと思うが、地域によってはそれ以降も大区小区制を継続したそうなので、もっと後の可能性もあるかもしれない。
というわけで、字名と図面があるので場所は分かっているのではないかと思うのだが、違うのだろうか。
もしかしたら、大まかな場所ではなくもっと正確な位置が不明ということだろうか。例えば「現地に行っても学校跡だと分かる地形が残っていないから、厳密にここ!と言えない」とか(?)。
2)洗馬(せば)学校
現在の塩尻市、当時は東筑摩郡宗賀(そうが)村に、明治10年(1877)に建てられた。展示パネルには明治20年代に撮影された写真が掲載されていた。三階建ての校舎である。一、二階部分は山梨県の藤村式といわれる校舎に似ているが、そのうえに三階部分が載っている。開智学校を建てた立石清重(1824-1894)の設計だという。
パネルの写真は校舎の手前に門柱や塀が立っていて、一階の形がよく分からない。ベランダの柱が一階まで通っているはずだと思ってよく見ても、柱が見えなかったので、一階の壁の上にニ階のベランダの柱が立っていたと想定してこんな想像図にした。(実際の形を正確に再現できていない可能性がある。)
色はまったくの出鱈目なので、信用しないでください。
(つづく)
【参考】
・パネル展「松本のたてもの2021 ~街を彩った擬洋風建築~」2021年9月~松本市歴史の里開催
・松本市立博物館ニュース「あなたと博物館」No.169, 2010.7.1発行
・「長野縣町村誌 南信編」1936年10月 長野縣 編集・発行(信濃地域史料アーカイブより)
・「中山村全図」(信濃地域史料アーカイブより)
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