秋田県公会堂の竣工はいつだったのか

2024-07-12

前回、秋田県記念館のポップアップカードを作った。次は秋田県公会堂(これは大正時代ではなく明治時代に建てられたものだけど)のポップアップカードを作るしかないだろう。
そう思って公会堂の下調べをしていたら、下調べだけで終わってしまった。

あまり鮮明でないが、以前使った画像を再掲載した。

もっと鮮明な画像を、江戸東京博物館のサイトで見つけたので、関心がある方はそちらもご覧頂きたい。
秋田県公会堂(絵葉書)」(江戸東京博物館の所蔵品)リンクは東京都立博物館・美術館収蔵品検索サイト。

さて、下調べに時間がかかったのは、過去の書籍を見ていたら竣工年や設計者で食い違いがあったからなのだ。

(1)竣工年はいつなのか

(本記事では正確な引用ではなく要約した部分が多いが、分かりやすくするため引用部分だけでなく要約部分の文字色も緑色にした。)

「秋田市史 昭和編」(1967)によれば、1904年11月3日に公会堂は竣工した。

ただ、同一書籍内なのに、年表では1900年竣工と記載してあって本文との食い違いが見られる。これは「秋田市史 下」(1951)にある「(1900年)5月10日は皇太子殿下の御結婚の御慶事があり(…中略…)御慶事記念公会堂を建築することとなり此年落成した」という誤記を引き継いでしまったように思える。

ところが、同じ「秋田市史 下」(1951)の別ページには次のような記載がある。(要約)

「武田千代三郎知事の時代(1899~1902)に、知事は公会堂の建設を指示した。技師が設計を終わったのは1900年の内だった。
建築には5年かかり、武田知事在任中には完成できず、次の志波知事の時代、1905年(明治38)11月に落成式を挙げた。(…中略…)これが普通に公会堂と呼ばれ、1918年(大正7)4月29日に火災に遭い、礎石のみが残っていた。跡地には1950年(昭和25)に秋田児童会館が建設された。」

(※章末に追記あり)

ここで「1905年」という表記が出てくるので混乱してしまう。これも誤記?
(補足:原文の年号は全て元号表記で、西暦の表記ではない。)

別の書籍も確認しよう。

「秋田県政史 下巻」(1956)から、公会堂に関する記述を拾い出してみる。

1900年(明治33)5月の臨時県議会で「皇太子御成婚を祝うべく公会堂の建設をしよう」という意見書が提出され可決された。次いで、予算は5万円、1900~1901年の継続事業とする予算案も可決。

1901年(明治34)の12月県議会で、建設予定地を秋田市と交渉したが市はその場所を認めるわけにはいかないというので、現在も検討中である。

1902年(明治35)2月県議会。建設敷地の決定に時間が掛かり、建物の設計についても県技師の手に負えず、片山東熊に依頼するということがあって着手が遅れていた。この時点で敷地の地ならしと側石の設置が終わったところ。予算の増額と、完成年度の延長を提案。

1904年(明治37)3月臨時県議会。日露戦争開始を受け、県予算の減額。公会堂の予算についても実施期間と金額が変更された。調整後の結果、予算総額76,858円、今年度予算が22,246円でこの年に完成予定、となった。

1905年(明治38)11月議会で、「来年度の予算」として公会堂の設備費15,344円が提案されている。(金額は修正されたらしいが明記なし。)

以上が、「秋田県政史」に書かれた公会堂関係の記載である。

1999年に秋田県公文書館が開催した展示「県庁文書に記録された秋田の近代建築」では、公会堂の建設を1904年としている。この展示は、県の建築に関する文書を展示したものなので、資料に基づいて1904年としていると思う。
私もこの記載を優先したいのだが、1905年の県議会で「公会堂設備費」の予算を確保しているのが引っ掛かる。
それとも、これは日露戦争で予算を減額したことが影響した、と考えればいいのだろうか。

1951年の「秋田市史」には明らかな誤記もあるので、完全に信用するのは躊躇われる。
県公文書館の記述に基づいて、私は1904年と判断することにした。

(2024.07.12 追記)
秋田県知事の在任期間を確認したところ、志波知事は在任中の1903年6月に病死していたことが分かった。公会堂の建築が1904年と1905年のどちらであろうと、秋田市史の知事と落成式の記述は事実と合わない。

(2)片山東熊はどれくらい関与したのか

上の公文書館のパンフレットには「公会堂は、明治の建築界でフランス派をリードした片山東熊の設計です」と明記してある。

県議会の記録と市史の記述を合わせると、「最初は県の技師が設計をし、うまくいかないので片山東熊に依頼した」という事情だったようだ。

ただ、当時の片山東熊の状況を見ると、
1899年(明治32)6月~11月、東宮御所造営資材調査発注のため渡米。(この年東宮御所着工)
1902年(明治35)12月~1903年12月 欧米各国への出張。
と、東宮御所建築に関わって海外出張が多かった時期なのだ。

秋田県から片山への依頼はおそらく1901年末~02年初頭のことだと思うので、その時は彼は国内にいたわけだから依頼自体はできただろう。しかし東宮御所建設という国家的事業の最中にどこまで依頼を受けられるだろうか。
県文書館によると当時の設計図面もほとんど残っていないそうなのだ。
これは個人的な想像でしかないが、片山が主体となって設計したというより県の技師に指導・助言をしたということなのかもしれない。

国立国会図書館デジタルコレクションで「秋田県公会堂の設計者」を検索したところ、「秋田県立秋田図書館沿革史 昭和36年度版」(1961)の中に次のような記述を見つけた。

1908年(明治41)の県議会で、図書館の書庫新築が提案された時のことだ。この時建築方法について説明をしたのが山口直昭技師だったそうだ。本文には「参与員山口直昭─秋田県公会堂の設計者─によれば、瓦を張り『シックイ』を塗る設計であるから耐震上にも却って堅固であり…」と、わざわざ『秋田県公会堂の設計者』という注釈が書かれていたのだ。

なので、私はポップアップカードの型紙には「設計:山口直昭(県技師)・片山東熊(設計顧問)」と表記しようかと思っている。
これが正しいか自信はないけれど。

山口は1905年(明治38)5月1日に東宮御所造営の御用掛として任命されている。
「明治工業史建築編」に、「(明治)38年5月1日、休職秋田県技師山口直昭(東宮御所御造営局)御用掛仰付らる」とあった。「御用掛」というのは宮内省(当時)の命を受けて仕事を担当した人のことだ。
「休職」とあるので、県の技師を休職して東宮御所造営に参加したようなのだ。秋田県公会堂の建設で、片山東熊とのつながりができたのではないだろうか。

なお、山口直昭は旧秋田銀行本店本館(1909年竣工、現:秋田市立赤れんが郷土館)の設計者として名を残している。

以上、気になったことについて書いたが、うまくまとまらなかったことをお許しいただきたい。
県の資料等を調べればまた別の意見を持つかもしれないので、現時点での判断である。

次回はポップアップカードの記事にする予定。(そうなるといいな)

【参考】
「秋田市史 昭和編」(秋田市史編集員会編/秋田市/1967)
「秋田市史 下」(歴史図書社/1975 ※内容は1951年発行の市史の復刻)
「秋田県政史 下巻」(秋田県議会秋田県政史編纂委員会編/秋田県議会/1956)
「秋田県立秋田図書館沿革史 昭和36年度版」(秋田県立秋田図書館/1961)
県庁文書に記録された秋田の近代建築」(秋田県公文書館/1999年開催の展示のパンフレット)
「明治工業史 建築編」(工学会編/工学会明治工業史発行所/1927)

歴史・資料

Posted by Sakyo K.