大礼記念 金沢市立図書館
先日の記事で、1928年の天皇即位に際して、金沢市の高さ33メートルの火の見櫓に電飾の垂れ幕を設置したことを書いた。
天皇即位に関しては、さまざまな自治体が即位記念行事を行なったり、公共建築を建てたりした。

金沢市では、このときに市立図書館を建築した。(上の写真)
金沢市出身の実業家である中島徳太郎(1881-1955)は、1928年9月に図書館の敷地購入費及び建築費として金沢市に8万円を寄附しようと申し出た。
中島は寄附に際して次のような要望を出した。
1)図書館には閲覧設備と併せて講堂を設置し、公益のために利用すること。
2)書庫は耐震耐火耐湿の設備とすること。
3)将来、1)の趣旨を変更したり図書館を廃止する場合は、寄付者又はその相続人と協議すること。
寄附の申し出を受けた金沢市は、9月11日に市議会を招集し、寄附を受けることにした。
金沢医学校の跡地(金沢城の北側)369坪を県から払い下げることができ、そこに鉄筋コンクリート造り3階建ての図書館を計画した。
設計は東京の近藤十郎に依頼した。(名前を検索すると、1906年から台湾総督府に技師として勤め台湾の学校や台北病院などを設計した近藤十郎(1877-1946)が見つかったのだが、彼は1924年に帰国したそうなので、断言はできないが多分同一人物なのだろうと思う。)
【追記】(2025-06-20)
「日本近代建築総覧」(1980)に、金沢市立図書館の設計は藤沢安太郎だと記されているのを見つけた。彼は金沢市役所に勤務する技師である。実際どうだったのか私は未調査のため現時点では設計者については断言できない。

蔵書は、市内の黒本植から蔵書の寄附の申し出があり、それを受けた。
1929年4月に着工し、建物本体は10月に竣工した。
そして1930年1月25日に落成式を開催しこの日を開館記念日とした。
実際に開館したのは7月10日のことだった。(新聞閲覧室はこれより早く公開したようだ。)


収容人数は、児童閲覧室48人、特別閲覧室8人、婦人閲覧室18人、普通閲覧室62人、新聞閲覧室26人、講堂268人となっていた。
講堂は図書館主催の会合で利用する他、一般市民が有料で利用できるようになっていた。
1945年(昭和20)4月から、空襲に備えて図書疎開をし、図書館は休館となった。再開館したのは1946年の1月である。
1948年、「大礼記念」の語を外し「金沢市立図書館」と改称した。
施設の老朽化や狭隘さから、1973年(昭和48)に図書館を改築することが決まった。
1972年に移転した日本専売公社の工場の跡地の一部を、市が1976年に取得してここに建てることになった。工事は1977年に始まり、1979年4月6日、金沢市立図書館が現在地で開館した。(後に金沢市立玉川図書館と改称した。)
(旧)市立図書館は1978年11月30日に閉館し、約半世紀の歴史を閉じた。
建物がいつ解体されたのか調べられなかったが、跡地には金沢総合健康センターが1982年に建てられた。現在は金沢健康プラザ大手町西館という名前だ。

空中写真にまだ開館中の図書館の姿を見つけた。1975年の撮影なので閉館の3年前だ。
矢印で示した建物が本館で、その北側に書庫があるのが見える。竣工時の図面よりも書庫が長くなっている。水色の屋根の部分はおそらく後で増築されたのだろう。
【参考】
「金沢市大礼記念要録」(金沢市/1929)
「金沢市立図書館案内:大礼記念」(金沢市立図書館/1936)
「金沢市史:現代編 続編」(金沢市史編さん委員会編/金沢市/1989)
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