旧陸軍伊那飛行場(2)

現在伊那市創造館で開催している特別展「陸軍伊那飛行場とその時代2」を見学した後、旧陸軍伊那飛行場の遺構にやってきた。
ここは一度訪れたことがあるのだが、その時は自分の知識がなくてほんの一部分しか見ることができなかった。

今回は、創造館でいただいた資料があるので、前回見られなかったところも確認できるだろう。

ところで実は7月現在、飛行場の遺構は発掘調査中だった。

この遺構の周辺では伊那市の環状北線の道路が通る予定で、2030年頃の開通になる見込みらしい。道路工事の時期は未定だが、地元から遺構の保存の要望があり、伊那市は飛行場の遺構を移設させる方針だという。まだ移築先は決まっていない。
今年が戦後80年の節目ということもあり、地中の構造を調査しているそうだ。

私は休日に訪問したので作業は行なわれていなかったが、掘り下げた穴を見ることができた。
覗いた感じでは、基礎部分は溝を掘って1mくらい(?)石を詰め込み、その上にコンクリートを打ったように見えたが、ニュースによると2m基礎が埋まっているらしい。

ところで、現地の説明板と今回の展示資料とでは基礎の位置が少し異なっている。
説明板では、この基礎は第2格納庫の北側の基礎のように図示されている。

しかし展覧会の図によると、第2格納庫の南側の基礎だったようだ。

ということは、格納庫があったのはこの写真の道路部分ということになる。格納庫が無くなった後に、地面を掘り下げて道路を造ったということなのだろう。

展覧会で貰った図を見ると、他に第3格納庫の基礎も残っているようだ。
それを探しに道路を北側に歩く。

見つけた。遺構の左右はそれぞれ企業の敷地となっており、通路もないのでここから眺めるだけだ。

この遺構の一部は、北側を斜めに走っている道路からも見える。右側の矢印が上の写真の基礎なのだが、左の矢印のところのコンクリート壁も同じ高さなので基礎の遺構の続きのように見える。
今回は近くで見ていないので断定はできないけれど、格納庫の大きさが40m四方だったので、長さも矛盾していない。

近くに弾薬庫もあるそうだが、民家の敷地内だということで見学しなかった。煉瓦壁の弾薬庫が残っていて、倉庫として使われているそうだ。

当時の滑走路の北側(地図のA地点)へ移動した。

ここからどのような風景がみえるのか確認したかったのだ。旧滑走路の南側は住宅地になっているが北側は水田が広がっている。

1943年(昭和18)8月から、地域住民、朝鮮人農耕隊らを動員してここに滑走路が造られた。
1944年からは学徒動員により学生も飛行場建設作業に動員された。

諏訪清陵高校同窓会が発行した「清陵八十年史」に、動員された生徒が記した文が掲載されているので一部引用する。
「飛行場の広さは、南北1350メートル、東西680メートルとのことで、伊那中学、長野師範2年生、松本高等学校、飯田中学、それにわれわれ諏訪中学生、さらに軍属の人たち10名くらい、柿木組(株木組の誤植だと思われる)の作業員多数、この中には朝鮮人も多数いた。…高さ2〜3メートルの、石は全然ない赤土の山を切り崩し、北側の窪地へ運ばなくてはならない。土はトロッコで運ぶのだ。作業にとりかかったが、土が堅くて鍬がささらない。…暑い日で体はだるく、こんなに疲れて一ヶ月も続くかと、実に難工事たることを痛感した。道具はシャベル、三ツ鍬、鍬、ジョレン等々十数種にも達した。」(p213)

これを見ると、作業は全て人力だったようだ。
諏訪中学校(現:諏訪清陵高校)の場合は、1944年6月14日から3年生が1ヶ月間、その後4年生が8月14日までの1ヶ月間動員されたそうだ。

別の学校の生徒だが、作業中に事故に遭ったという記録もある。
1944年6月11日、飯田中学校の生徒が土砂崩壊の下敷きになり、救出されたが下半身不随になってしまった。(1955年死去。)

女子生徒が飛行場の整地芝植作業を行なったという記録もあった。1メートル幅に土を掘り起こし、遠くから採ってきた芝を植えていく仕事だったという。

最後の写真は、地図のB地点で撮影した。

道路脇に門柱が倒れている。これは伊那飛行場の裏門の門柱だったと言われているらしい。
正確な位置は分からないが、倒した後それほど遠い位置には運ばないだろうから、この付近(掩体壕の脇)に裏門があったということになる。
門柱の置かれている場所の東側は農地が広がっているが、西側=掩体壕があった場所の南半分は、昭和50年代に住宅団地として整備され、現在は約340世帯が生活している。
掩体壕の北半分の土地は、宅地もあるが企業が用地を取得した部分が多いようだ。

昨年ここを訪れた時、「次は自転車で敷地を走ってみたい」と思ったが、暑くてそんな気になれない。今回は自動車で気になるポイントを何ヶ所か確認しただけだ。
伊那市創造館の特別展の資料が参考となり助かった。

最初に書いたように、伊那市は格納庫基礎部分の移設を計画しているそうだが、まだ場所は決まっていない。
どのような形で移設されるのか分からないが、歴史資料として残すのだから旧空港の敷地内で移設することになるのだろうと思う。

【関連記事】
 「旧陸軍伊那飛行場」(2024-04-06)
 「伊那市創造館・特別展」(2025-07-29)

【参考】
 「特別展・陸軍伊那飛行場とその時代2」(伊那市創造館/2025年7月26日~12月26日予定)
 「下伊那教育会七十年史」(下伊那教育会七十年史編集委員会編/下伊那教育会/1960)
 「清陵八十年史」(長野県諏訪清陵高等学校同窓会清陵八十年史刊行委員会編/長野県諏訪清陵高等学校同窓会/1981)