旧燃料研究所本庁舎
今回はポップアップカードを作るために調べたことを書く。カードはこれから作る予定だ。
昔、埼玉県川口市に燃料研究所という国の施設があった。
燃料研究所は、石炭や石油などの燃料に関する調査研究を行なうために1920年(大正9)に設置された機関である。発足時は農商務省の管轄の研究所だった。
研究所の敷地は埼玉県川口町(当時)の川口町駅(現・川口駅)西側の場所が選ばれた。水田だった土地約1万5千坪(約49.5ha)を買収し、荒川堤防工事で出た残土を使って盛り土をしたという。
1921年に本庁舎と一般分析室が竣工し、翌年には研究室や倉庫、官舎などが建てられた。
本庁舎の写真があったので掲載する。
鉄筋コンクリート造二階建・塔屋部分5階建の本庁舎は、渡辺仁(1887-1973)が設計を担当し、工事は竹田組が担当した。
時計台は「はまき」というあだ名でも呼ばれていたようだ。
その後も施設は増築され、設立当初は19名だった職員も次第に増えていった。(戦後の数字だが、1950年には職員数240名となった。)
1925年に商工省が創設され、研究所はその所管となった。
戦時中には、松根油から航空燃料をつくる研究や、石炭を溶剤で処理して代用重油を作る研究なども行なったらしい。
1943年11月には軍需省が設置されその管轄下に入ったが、終戦後軍需省は廃止されたのでまた商工省の所管に戻った。終戦直後はエネルギー不足を改善するために亜炭の活用などの研究を中心に行なったという。
1948年8月に商工省の外局として工業技術庁が設立され、その所管となった。翌年には商工省が廃止され通商産業省が設置されている。
次の写真は、1951年に出版された「燃料研究所三十周年記念誌」に掲載されているものだ。最初に載せた写真よりこちらの方が建物の外観が分かりやすいが、特に増改築などが行われた様子は見当たらない。
1952年4月、燃料研究所と鉱業技術研究所が合併して「資源技術試験所」が編成された。鉱業技術研究所は1947年に設立されたばかりの組織だった。
資源技術試験所では、主に地下資源の保全や開発、活用について総合的に研究を行なった。
これは1962年時点での設備だが、川口市の本所のほか、東京都北区に浮間分室、福岡県直方市に九州支所、福岡県碓井町(現在の嘉麻市)に試験炭坑、札幌市に北海道支所があった。
1970年、また組織が変更された。公害研究部門を拡充して「公害資源研究所」となったのだ。
資源・エネルギーの開発や活用の研究、産業保安に関する研究、環境汚染防止技術に関する研究などを行なった。
1979年、研究所は川口市から茨城県つくば市に移転を始めた。(1980年3月移転完了。)
その後の組織は、1991年に資源環境技術総合研究所に改組され、2001年に産業技術研究所が発足した際にその部門として組み込まれた。部門名は何度か改名されていて、2020年からは環境創生研究部門という名称になっている。
次の写真は1979年に撮影された川口駅西側の空中写真である。(国土地理院サイトより)
矢印で示した建物が旧燃料研究所本庁舎だ。
この建物を含め、線路の西側に大きな建物が並んでいる区画が全て、研究所の敷地だった。
公害資源研究所が移転した後、川口市は1983年に「川口駅周辺市街地整備構想」を策定した。
研究所跡地は川口市と住宅・都市整備公団に払い下げられ、1987年には全ての建物を解体し終えたようだ。
跡地には住宅や商業施設、総合文化センター、川口西公園、駐車場が整備され、1992年竣工した。
比較用に近年の空中写真も掲載しておく。2019年に撮影されたものだ。
精密に位置合わせをしたわけではないが、公害資源研究所の本庁舎があった場所は、現在は川口総合文化センターの西側の平地の辺りになる。なおその西側の緑地は、地下に市営の駐車場が造られており地上が公園となっている。(※この文は6月10日に表記を修正した。)
もうすっかり変わってしまって、研究所の痕跡は全く残っていない。
ただ、旧庁舎の姿を残すものとして、川口市は旧公害資源研究所のモニュメントを市営駐車場北側の壁面に設置した。ストリートビューでも見ることができる。(リンクは2020年に撮影されたもの)
さて、カードの設計を始めよう。出来あがったらサイトに掲載する。
参考
「燃料研究所三十周年記念誌」(工業技術庁燃料研究所編/工業技術庁燃料研究所/1951)
「資源技術試験所年報 昭和35年度」(工業技術院資源技術試験所/1962)
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