「御料館」見学

長野県木曽町に御料館という建物がある。
この建物は現在は木曽町が所有・管理しているが、もともとは国の施設として建設されたものだ。
建てられたのは1927年(昭和2)12月。当時の名称は「帝室林野局木曽支局」であった。

正門から坂を登ったところに庁舎は建っている。

正門をくぐると通路は二手に分かれ、カーブして玄関前で合流をする。
坂の途中で見上げると、このように庁舎が見える。

なお自動車で来た場合は庁舎に向って左側に駐車場があるので、そこからは坂を登らずに建物に入ることができる。

建物の歴史について書くが、まずは明治時代から始めたい。

江戸時代の木曽の山林は、住民が自由に出入りして柴草や薪などを採ることができる明山(あきやま)と、立入禁止区域(留山(とめやま)巣山(すやま)鞘山(さややま))とに区分されていた。
明治時代に入り、木曽の住民は立入禁止区域を住民に開放するよう求めたが、なかなか認められず、多くは官林という位置づけとなった。
政府は皇室財産を管理経営するため、1885年(明治18)に宮内省に御料局を設置した。御料局は官林・公有林・民有林を、皇室財産である「御料林」に編入することを進めていった。

住民の反対の中、1889年(明治22)には木曽の山林の大部分が御料林に編入された。その後も住民から反対の声は上がり続け、政府は1905年(明治38)に県に下賜金を渡すことで納得させたようだ。

その少し前、1903年(明治36)に長野県西筑摩郡福島町に御料局木曽支庁が設置された。支庁は御料林の維持管理のため森林鉄道の設置など近代的な経営を行なった。
1908年(明治41)には御料局は帝室林野管理局と改称し、宮内省から独立した。
さらに1924年(大正13)には帝室林野管理局から帝室林野局に名称変更された。木曽支庁は帝室林野局木曽支局となった。
ところが1927年(昭和2)5月12日、福島町大火が発生した。
火元は木曽川の南側、線路の近くの民家だったが、強風にあおられて北側に延焼し、焼失戸数750棟、死者2名重症120名という被害となった。帝室林野局木曽支局庁舎も焼失してしまった。

庁舎が火災で焼失した後、半年間で建てられたのが現在の建物だ。
設計は宮内省内匠寮、木造2階建てで外壁はモルタル塗り、屋根の中央には八角形の塔屋が設置されている。

玄関を入ると正面に階段がある。
内装には当時流行のアール・デコ様式が取り入れられている。

戦後、1947年(昭和22)に帝室林野局は廃止され、御料林は国有林となって農林省林野局(のちに林野庁)が管轄することとなった。
この庁舎も長野営林局と改称された。
1954年(昭和29)、営林局の本庁は長野市に移転され、この建物は営林局の分室となった。また1階には林業試験場木曽分場が置かれた。
1995年(平成7)には長野営林局森林技術センターとなり、1999年に中部森林管理局森林技術第1センターとなる。
国の施設としてはこの森林技術第1センターが最後であり、2004年(平成16)にセンターは閉庁となった。

その後庁舎保存の署名や嘆願書が町に提出され、2010年(平成22)に土地と建物は木曽町の所有となった。

2012年(平成24)に木曽町有形文化財に指定され、その後復元改修工事が始まった。工事は2014年に完成し、7月から一般公開・活用が始まった。建物は資料を展示する展示室と、会議室や実習室、木育ルーム(木製の遊具がある)など町民が使える部屋を備えている。
現在の「御料館」という愛称は、一般公開後の11月に名づけられたものだ。

この写真は2階の大会議室の内部である。私の好きな部分だ。

この部屋は支局長室だ。内部は竣工当時の雰囲気を再現したという。

別の展示室には、写真や図面、剥製や昆虫標本などが展示されている。
明治時代に作成された木曽谷の立体模型も展示されていた。1881年(明治14)に東京上野で開催された第二回内国勧業博覧会に出品されたものだそうだ。

見学を終えて外に出た。
こちらは駐車場から見た庁舎の側面。横の入口には車椅子用のスロープが作られている。

建物の背面には倉庫や、2階に入るための車椅子用のスロープがあった。内部にエレベーターがないのでここにスロープを設置したらしい。

最初の写真では塔屋の形がよく分からないので、最後に背面側から見た塔屋の写真を載せてこの記事を終わりにする。

改修工事後開館してから今年で10年が経過した。今後も維持していただきたい。

甲信越地方

Posted by Sakyo K.