鐘の鳴る丘集会所

2023-04-27

拾ヶ堰のサイクリング後は車で移動し、鐘の鳴る丘集会所と穂高郷土資料館へやってきた。
集会所は中に入れないようなので外観だけ見て回る。

現地に立てられている説明板には、「とんがり帽子」(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)の詞が書いてある。
「♪緑の丘の赤い屋根~」昭和22年放送開始の「鐘の鳴る丘」主題歌だが、当時生まれていない私も子供の頃に聞いて知っている。

ところでこの建物は、戦前は温泉旅館として使われていたのだ。記事の後半で建物の沿革をまとめようと思う。
さて建物に近づいてみよう。

塔屋部分のアップ。この時計台は最初からあったわけではないらしい。

玄関部分。部分的に古い部材は使われているようだが、窓はサッシで壁もずいぶん新しい感じ。

裏に回ると、印象がだいぶ異なる。わりと最近建てられた建物という感じ。窓の位置は昔からこうだったのかな。

すぐ近くに穂高郷土資料館があり、その中に関連した展示もあると聞いていたので、資料館に向かう。

ちょうど、企画展として「『鐘の鳴る丘』と主題歌『とんがり帽子』」をやっていた。その展示内容と他の資料も参考にして、沿革を書いてみよう。

「鐘の鳴る丘集会所」の建物はもともと、1905年(明治38)に長野市の鶴賀に建てられた遊廓「中屋」だったのだという。1917年(大正6)まで営業していたらしい。この時は時計台はなかったのだという。

有明温泉株式会社が建物を購入し、1919年(大正8)に有明村宮城に移築、有明温泉として1921年(大正10)から営業を始めた。(有明村は後に穂高町となり、現在は安曇野市。)

1930年(昭和5)発行の「日本温泉案内 西部篇」には有明温泉の紹介として「温泉は三里の山奥にある中房温泉から引湯したものだ。昔から歌枕や月の名所として名高い有明山、その麓に広々とした小松原があつて、その小松原の中に白亜の三層が城郭のように建って居る。これが有明温泉旅館である」と書かれている。
「約50室を有し、一泊1円50銭より3円まで。自炊は室代、食費を含み一日1円」だったそうだ。

「白亜」とあるが、旅館の壁は淡いブルーに塗られていたという穂高町史の記述も見た。どちらが正しいのだ?

旅館営業時代の写真を掲載。この写真を見ると、時計台の形は現在と異なっているのが分かる。(当記事の上から2枚目の写真と比較)

ところがこの温泉旅館は、先に触れたように中房温泉から引湯しており、その距離が12km、落差515mもあって途中で冷めてしまうので加熱をしなければならない、という問題を最初から抱えていた。
結局昭和初期には廃業することになってしまう。

廃業年を明記している資料があまり見当たらないが、「ドキュメント鐘の鳴る丘 とんがり帽子の時計台」には「1926年倒産」という記載がある。
この年号が正しいのであれば、上に書いた「日本温泉案内」(1930年発行)で営業中のように紹介しているのは、ガイドブックとして問題があるのではないかね?
それとも、1926年が誤りなのか。
実は穂高町史を見直したら、「昭和三年倒産を目前にしながらも…技術の追求が続けられていた。」という表記があったので困惑している。

複数の資料で違う年号が出てきたので廃業の正確な時期を確認できなかったが、いずれにしろ、戦中は廃虚のようになっていた。
その後、1944年(昭和19)頃に時計台と三階部分を外し、二階建てに改築されたのだという。
そして、司法保護団体が建物と土地を買い取り、1946年にこの建物を利用した「松本少年学院」が開設された。

1947年にはNHKラジオで「鐘の鳴る丘」の放送が始まる。ドラマの舞台の一つとして、当時注目を集めたという。観光客が寄ることもあったようだ。(岩手県奥州市江刺の旧岩谷堂共立病院も、モデルとして名前が挙がる。)

ところで、実はこのドラマは、GHQの要請によるものであったらしい。

GHQは戦災孤児や引き上げ孤児の対策について助言してもらうため、エドワード・ジョセフ・フラナガンを日本に招聘した。通称フラナガン神父と呼ばれているが、1912年にネブラスカ州オハマに「少年の町」という更生自立支援施設を作った人である。
彼が1947年に来日するのに合わせ、GHQの幕僚部の部局の一つ、民間情報教育局(CIE)が、NHKに戦争孤児救済のためのキャンペーンドラマの制作を要請したということだ。

さて、1948年に少年院法が公布され、建物は法務省の所有となり少年院「有明高原寮」が発足した。

この写真には、時計台が写っていない。いつ再設置したのだろう。

それから30余年、老朽化のため有明高原寮を建て直すことになり、旧い建物は解体される予定だった。しかし、市民団体から移転復元を望む声があがり、1980年(昭和55)に現在地に移築された。「鐘の鳴る丘集会所」という名称になり、現在も研修等で使われている。

移築時には「玄関上屋、外部手摺、2階ベランダ屋根、垂木等は、有明高原寮で使用されていたものを使用して建てられました」と資料館の展示にあったので、新しい部材が使われた部分も結構あるようだ。

1982年には穂高町有形文化財に指定された。2005年に合併により安曇野市が発足したため、2008年に安曇野市有形文化財に再指定された。写真は、安曇野市有形文化財になってから建てられた、現地の案内板。

建物の中には入っていないのだが、パンフレットによると2階には有明温泉関連の資料や写真などがあるということなので、機会があれば入ってみたいものだ。

最後の写真は、郷土資料館の前にあったポストである。
なお、穂高郷土資料館は1月・2月は冬期休館となるそうだ。

【参考】
・穂高郷土資料館の展示と「鐘の鳴る丘集会所」のパンフレット
・穂高町史編纂委員会編(1991)『穂高町史 第3巻(歴史編 下)』, 穂高町史刊行会.
・神津良子(2003)『ドキュメント鐘の鳴る丘 とんがり帽子の時計台』, 郷土出版社.
・大日本雄弁会講談社編(1930)『日本温泉案内 西部篇』, 大日本雄弁会講談社.

【補記】
(2020.10.28) 倒産時期について穂高町史の記述を追記した。いまのところ廃業の正確な時期はよく分からないままだ。

甲信越地方

Posted by Sakyo K.