旧座光寺麻績学校(1)
長野県飯田市に、旧座光寺麻績学校がある。
今年の5月に中を見学する機会があったので、その様子を書く。
麻績学校の外観。この建物は、1873年(明治6)に建てられた。
特徴は、歌舞伎を演じる舞台と学校とを兼用するように建てられたことである。
1872年8月に学制が公布された。その少し前の同年2月、当時の筑摩県権令の永山盛輝は「学校創立告諭」を出して各地に学校を作らせようとしていた。
当時の座光寺村は寺院を校舎として学校を開校したが、まもなく校舎新築の計画が立てられた。
実はこれ以前、座光寺村では地芝居のための舞台を建てる要望があり、建設することが1871年2月に決まった。しかし10月に用材の強行伐採をめぐる騒動があり、1872年1月に舞台建設は取り止めになっていた。
そのような状況だったので、校舎建築に際し、舞台としても使える学校を建てることになったらしい。
1873年9月に着工。翌年1874年4月に開校して新校舎が使われるようになった。
案内表示があった。隣の「国際糸繰り人形館」に申し出れば内部の見学ができるというので、申し込みをした。
申し込んだら建物を開けてもらえた。矢印のところが見学者の入口である。
入口の内側はこんな様子だった。靴は私のだ。他に誰もいない。中は一人で自由に見学することができる。
1階の様子。芝居の時はここが舞台となるよう計画されたのだが、実際に舞台として使われたのは、記録上は2回しか確認できないという。(1881年と82年)
建設当初は1階には教室が2室と、廊下、職員入口があった。だから実際には壁も作られたのだろうと思うが、舞台として使うために外しやすくなっていたのだろうか。
明治時代後期(1890年代以降)にはもう舞台として使われることはなく、学校専用となっていたようだ。
1階の左右には、舞台で使う太夫座と下座がある。写真は下座の方。
太夫座は浄瑠璃の語り手がいる舞台の上手で、下座は囃子方がいる舞台の下手になる。
天井を見上げると2階の床板が一部外されていた。前側と奥側の床が外せるようになっている。舞台を上演する時にはここを外したようだ。
壁面に資料が掲示されていて、その中に建物の正面図・側面図があった。
側面図を見ると、建物の正面側は二階建てだが舞台の背面は中二階があるので3層になっていることが分かる。
1階部分は入れるので、そちらも見てみよう。
中は資料が展示されている。こちらは天井が低い。
奥まで行くと、門扉らしきものがあった。これは校門の扉か?
右側の小さな階段は、舞台へつながる通路だ。
ここで振り返ると、中二階に上る階段(No.9の写真の右奥に写っている)があったのだが、覗いてみたら奥は真っ暗だったので入れなかった。
舞台の方に戻る。壁に復元工事前の写真があった。
この校舎は1984年(昭和59)1月まで小学校として使われ、保存修復工事は1995年(平成7)~97年に行われたので、その間に撮影されたものだろう。
これを見ると、建物正面に玄関があるのが見える。No.1の写真のように、現在は玄関はない。
保存修復工事は、「竣工当時の姿に戻す」ことを目的に行われたので、玄関は後になって付けられたものだ。
年表を確認すると、1907年(明治40)の校舎増築の際に、玄関が付けられたとある。舞台の正面に玄関を付けたのではもう舞台として使えないので、上に書いた〝明治時代後期には学校専用だった〟ということと一致している。
それから手前に門柱が立っているが、No.10の写真に写っている門扉はこの門柱に付けられていたものではないだろうか?
舞台の右手には二階に上る階段があるが、残念ながら立入禁止になっていた。
壁には、初代筑摩県権令の永山盛輝が揮毫した「麻績学校」の額が掛けられている。
再び舞台から二階を見上げる。二階には上がれないので、外に出ることにした。
(つづく)
【参考】
「長野県史美術建築資料編」(長野県編/長野県史刊行会/1990)
「旧座光寺麻績学校校舎修理報告書」(飯田市教育委員会/1999)
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