旧岡谷市上水道集水溝

2025-06-28

諏訪湖を見下ろす高台に来た。写真では分かりにくいが正面の諏訪湖方面に下っていく道路はかなりきつい坂である。

岡谷市の近代化遺産を調べていて、旧岡谷市上水道集水溝があるというので確認しに来たのだ。

上の写真の撮影地は、地図に「現在地」と記入したところだ。等高線で見ると標高は860m余りある。岡谷駅の標高が766mだというので、平地から100mほど高い。

そして「旧岡谷市上水道集水溝」はそこから少し山側に上ったところにあるという。

上を見ると石垣を積んだ水路があり、「経済産業省認定近代化産業遺産 旧岡谷上水道集水溝」と書かれた案内表示が立っている。

ここで岡谷市の上水道の歴史についてみておこう。

大正時代、製糸業の発展と人口の急増から、平野村(現在の岡谷市の一部)では水の需要が増え、また工場の排水による地下水の汚染も見られた。
さらに、1920~21年(大正9~10)に村内で腸チフスが流行し、原因が飲料水によるものだと分かったので、上水道建設の要望が高まった。

しかし平野村では水利権の問題があって、村内全域に水道を敷設することが難しかった。次のように地域ごとに水道が計画された。
小井川(こいかわ) 地区では小井川上水道が1922年(大正11)に敷設認可、1924年に竣工した。小尾口(おびぐち)下浜(しもはま)地区は湊村花岡地区と共同で1924年に平野村湊村上水道組合を設立し、1926年竣工した。(後に間下地区も合併。)

岡谷地区でも水道敷設を計画して調査していたが、関東大震災のため中止になっていた。
1926年になって調査を開始し、新屋敷(あらやしき)上浜(かみはま)も加わって岡谷上水道の敷設を開始した。
水源は西側の山地にある滝ノ沢の渓流とし、1927年に水源集水溝、導水管敷設、受水井・分水井を築造、さらに貯水池(岡谷配水池)を造って1928年に給水を開始した。

このような経緯で造られた上水道である。

では、集水溝のところまで行ってみよう。水路に沿って歩いていくが、水は流れていない。
少し歩くと遠くに茶色いものが見えた。

近くまで来た。右側の赤茶色の扉がついているのが、集水溝である。
説明板が立っているので近くに行こう。

え?この橋大丈夫なの? なんかふわふわしてるんだけど。
木がしっかりしていそうなところを探りながら慎重に渡る。

これが集水溝。
写真右側の説明板によると、正面は石積みで側壁や内部はコンクリート造りだという。上部に換気口がある。山側の壁面の石積みの隙間から湧水を取り込み、斜面を利用して流していたという。
一日1100立方メートルの湧き水を取り入れていたそうだ。

しかし、説明板には続きがある。
中央道長野線の岡谷トンネル掘削で水が涸れてしまい、1988年(昭和63)に使用停止となったと書かれていたのだ。
それで「旧」の文字が付いているのか。

もう一つの説明板では名称を「岡谷水道 滝ノ沢湧水集水溝」と表記していた。
こちらには建造の歴史と、1955年(昭和30)に岡谷市営上水道へ移管されたこと、そして廃止のことが書かれていた。

正面の石積みと金属扉。扉には近代化産業遺産(2007年認定)のプレート、左側には登録有形文化財(2003年登録)のプレートが取り付けられている。

上段はフェンスに囲まれていて入ることはできないが、換気口が見えた。

上水道廃止後、この施設は山の所有者である宗教法人十五社に返還され、現在は同社が管理しているそうだ。

集水溝の横には神社があった。フェンスで囲まれているところが、元水道施設の範囲である。

鳥居の左側で水路の石垣は終わっていた。上流は水の流れていない沢で、左右は自然の地形のように思えたが、ところどころ土砂流出を防ぐためと思われる石積みの小さな堰堤がいくつかあった。

この写真は神社から100mくらい上ったところだったろうか。私はここで引き返した。

【参考】
 「平野村誌 上巻」(諏訪郡平野村/1932)
 「岡谷市史 中巻」(岡谷市/1976)

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Posted by Sakyo K.