帝国図書館の増築
現在の国際子ども図書館は、第二次世界大戦前は帝国図書館だった。本館は1906年(明治39)に建てられ、1928年から29年(昭和3~4)にかけて増築された。
帝国図書館は定期的に「帝国図書館報」を発行していて、国立国会図書館デジタルコレクションで内容を確認できる。「帝国図書館報 第23冊第1号」(1930年6月発行)に、増築落成式のことが書かれていたので紹介する。
引用にあたって旧字体を常用漢字に、漢数字を算用数字に置き換えた。
帝国図書館増築工事概要
一、位置 東京市上野公園内
一、建物概要
坪数 本館 建坪数 146坪128
同 延坪数 444坪378
附属家坪数 67坪918
合 計 512坪296
階数 地階共4階
基礎 既設地階周壁上に鉄筋「コンクリート」基礎梁
主体構造 鉄筋「コンクリート」造 但シ小屋組み鉄骨
外部仕上 腰部人造模擬石、上部「タイル」張
工事請負人 株式会社鴻池組
工事期間 本 館 自昭和3年6月5日 至同4年8月4日
附属家 自昭和4年10月22日 至同5年2月8日
請負金額(附属設備共)271,676円940
一、設備概要
暖房設備 蒸気暖房装置
昇降設備 国産「エレベーター」装置
衛生設備 事務室及食堂に手洗器ヲ設ケ要所に給水、排水及洗面所ノ設置ヲナス、
便所は水洗式ト
瓦斯設備 各食堂ハ炊事用瓦斯設
電気設備 電燈、電話、電鈴、電気時計等ヲ設ク
家具設備 各閲覧室ニ椅子卓子及び監視台ヲ設ケ館長室ハ椅子、卓子ノ外書棚
「スクリーン」等ヲ設備
外構 外構は東面に土坡ヲ築キ門ヲ設ケ前庭通路周園及道路界ノ要所ニ植樹ス
三階平面図
館報にはこのような図面が掲載されているが、計画時点での設計図であり、実際に建てられたのは赤線で囲んだ部分だけである。斜線が入っている区画が増築工事部分だ。
現在ホールになっている部屋は、閲覧室として建てられた。
二階平面図
こちらは赤線は付けなかったが実際に建てられたのは右側の部分。
「閲覧室」と「婦人閲覧室」「婦人化粧室」が増築された。
一階平面図
事務室と館長室、応接室などが増築された。
地下には食堂やボイラー室が増築された。
増築落成式は、1930年3月15日に開催された。
二百名以上の参加者があったという。会場は新館の三階で、旧館三階を宴会場、二階では展覧会が開催された。
式次第は次の通り。
一 工事報告
一 館長式辞
一 文部大臣祝辞
一 内務大臣祝辞
一 大蔵大臣祝辞
一 東京帝国大学附属図書館長祝辞
以下に工事報告を引用する。この部分は原文ではカタカナだったがひらがなに置き換えた。
工事報告
帝国図書館増築工事は営繕管財局の設計及び監督の下に昭和3年6月5日其の工を起し爾来約1年2ケ月の日子を費やし同4年8月4日竣工し附属下足置き場は同年10月22日起工し本年2月8日竣工を告ぐるに至れり。
本増築工事の部分は地階を除き三階建てにして建坪146坪128、延坪444坪378、附属家は延坪67坪918、総延坪512坪296なり。而して機械電気衛生の各設備及び外構家具等の附属工事を合し其の工事費総額金271,674円940を要したり。
旧本館は煉瓦造りにして明治39年の建築に係るものなるも増築部分及び附属家は鉄筋混凝土造に改め殊に外観は前者と同様なる「レネーサンス」式を選び其の体裁を統一せり。新館各室の配置は地階に食堂及び機関室を一階に館長室応接室事務室及び昇降機室を設け、二・三階は全部閲覧室に充て婦人室貴重書室及び特別室に別ち之れを適宜按配せり。而して新館の構造設備は経費の節約を謀り堅牢を旨とし採光暖房昇降の利便を図り保健衛生設備に意を注げる等旧館に比し遜色なく且つ適当の注意を払いたるを以て本増築は略ぼ時代に順応し得らるべきものと認む。
尚ほ本工事の施工に当たりては異なりたる構造及び材料を以て旧館との外観を統一したるか為め種々なる困難に遭遇し従って起工以来監督員及び請負者並びに従事者一同特に努力せる所少なからずして茲に始めて予期の成績を挙げ本工事を竣成せしめたるものと信ず。以上工事の概要を録し以て報告とす。
昭和5年3月15日 工事主任営繕管財局技師 清水正喜
清水正喜の名は、1925年(大正14)の官報(7月14日)に「七級俸下賜 営繕管財局技師 清水正喜」と記載がある。営繕財務技師とあるのでこの人物で間違いないと思うのだが、名前には見覚えがあった。
当ブログ記事の「旧岐阜県庁舎」(2022.12.17)に彼の名前を書いていたのだ。
岐阜県の作成した「旧岐阜県庁舎建築文化財調査報告書」によると、県庁舎の設計監督をした清水正喜は県庁建設のために派遣された高等官で、1923年には岐阜市に移住しているが、1925年には東京赤坂に転居していることが分かっているという。
岐阜県の調査報告書には「清水が関わった他の建築や、次の赴任先については不明である」(p11)と書かれているが、岐阜県庁を担当した数年後には帝国図書館の増築工事に関わっていたのだった。
話を落成式に戻す。
続いて館長の式辞が述べられた。
館長式辞では、図書館の歴史を語り、今まで手狭で困っていたこと、大正時代に木造の仮閲覧室を建造したこと、開館と同時に満室になることが多かったこと等を述べている。(式辞では直接触れていないが、1923年の関東大震災で市中の図書館が罹災したことで利用者が増えたということもあったようだ。)
そして増築の喜びを語るが、予算の関係で最初の計画の3分の1であること、増築後も既に満員であることなどを語る。
一部を引用する。
「即ち新館の増築によって、閲覧室は座席450有余を加え、全定員千有余席を算するに至りましたが、本館増築成れりときいて殺到する読書子の為に忽ち満員を告げ、入館し得ざる者の門前市を為すの光景は、拡張以前を聊かも其趣を異にせざるものでありまして、日々千五百乃至千八百名の利用者以外は依然として樹下石上に空席の生じるをまちわぶるか、或いは失望して空しく帰り去らざるを得ざるの実情であります。如此は、図書館に対する現代人の要求のいかに切なるものあるかを如実に示せるものでありまして、随って閲覧室の拡張は引続き当局の御配慮を願わざるを得ないのであります。且つ図書館の心臓とも謂ふべき書庫は全く収容の余地なく、蔵書約七十万冊の中二十余万冊は、何等の防火設備なき木造仮書庫中に蔵するの余儀なき情況に置かるるものでありまして、之即ち本館全設計の今後着々実現せられ、国立図書館としての形態が完成せらるる日の速やかならむ事を希って止まざる所以であります。」
式辞なので最後はもちろん感謝を述べて締めくくるのだが、上のような現状を訴えているところが興味深かった。
しかし館長の願いも空しく、その後の日本は戦争に突入して、文化も教育も軽視される時代になってしまう。
1937年の日中戦争勃発・1941年の太平洋戦争勃発以後、経費は削減され、職員も応召・徴用される。来館者は多かったが図書館は運営することも厳しい情況になってしまったのだ。
1943年には貴重図書を疎開させることになった。11月に長野県立図書館に6万6千冊を、1944年5月に6万4千冊、8月に3400冊を輸送した。(地方都市も空襲の危険が出てきたため1945年には飯山高等女学校に再疎開させた。)そんな中でも開館は続けていたそうだ。
戦後、日常業務を遂行しつつ疎開した図書を引き取り復旧をさせ、1947年春頃には図書館としての機能を取り戻したという。
【参考】
「帝国図書館報 第23冊第1号」(帝国図書館/1930)
「上野図書館八十年略史」(国立国会図書館上野図書館/1953)
「旧岐阜県庁舎建築文化財調査報告書」(岐阜県/2013)
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません